tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

ゴゲイト&ホリックの論文「幼児の言語習得の多重感覚基盤仮説」(2011)の意義

さて、ひさびさの更新です。

 

 わたくしの日本語の基礎理論の研究が煮詰まってきたころでしたが、日本語文の形式構造の二元論(経験を記述する事態直観文と対象のカテゴリーや性質・状態に関する定性関係判断文の二元論)という抽象的な部分がまとまった後で、横断的に多方面の研究を参考に、日本語を含む言語一般に関する理論を模索する中、この実証性充分な論文と出会いました。これが、日本語に関するわたしの枠組みについての確信を強めてくれました。

    私にとっては、日本語基底文を、現象学分析哲学を使って、自然言語を挟み撃ちにすることに見込みがあることを実証する時には、要になる論文です。

 

 この記事でとりあげるゴゲイト&ホリックの論文の意義はひとつではない。

    まず、幼児の言語習得の観点からは、優勢な「概念説」とは異なり、おまけに、概念成立や二歳児の語彙爆発の前提になるより早い段階の経験的基盤を新たに提示していると、私には考えられた。

 つまり、もっとも狭い範囲で言える意義は、言語習得の理論に新しい局面を開くところだろう。 

 

 最初期の言語習得の仕組みは、2歳前後の語彙爆発期の説明モデルの鍵である「概念」では説明できない。彼らは、「概念」に替えて、ギブソンの不変項探知という能動的、あるいは、相互作用による探知detectという見方をとる。

 不変項探知の対象群は、輻輳しており、多層的でもある。

 典型的な例とその説明は、だいたい次のようなものである。

 生後6ヶ月以降の乳児は、養育者が目の前で提示する、単純な不変項、発せられる音素列=語(聴覚)、語に同期して示されるもの(たとえばミルクの哺乳瓶、視覚)を探知する。

 また、複合的な不変項、養育者の口の動き(視覚)と音素列=語(聴覚)の度重なる組み合わせによる両者の関係という不変項を探知する。

 これらは、知覚が基盤であり、母子関係などに見られる相互作用という文脈に生じている、聴覚と視覚のマッチmatch(組み合わせ)の創発である。

 

 このような探知は、言語進化のもともとの時期に想いを馳せるならば、ことばの始まりでは、ある小集団の発明的な音声の使用としてことばの種が撒かれてから、語彙の定着と増殖、語と語をビーズのようにつなぐ文の創発、文と文をつなぐ談話へと発達したことを一貫して説明する仮説が生じる。

 これが第2の意義である。このことは、著者たち自身によってこの論文に指摘されている。

 

 脳神経と言語の関係にもこの論文は言及している。

 私は、こちらには、とくに不案内だが、次のように見当をつけている。

 この論文は、チョムスキー流の遺伝情報、脳の機構、普遍文法(UG)をセットとする言語生得説、別名言語のデカルト主義と競合する理論である。

    その競合の仕方は、あたかもハードな臓器の一部が脳の言語野をみなす決定論に替えて、ハードな視覚、聴覚、発声に関わる運動野の交差する領域に形成されたハブ的な機能と見なす代替説を提示している。後者は、言語後天説であり、ヒトの意識・心を実体とは見ないで脳の機能と見る見方とも矛盾しない。

    むしろ、生体決定論的ニュアンスの強いチョムスキー流の言語観と意識・心の機能説を合わせると、言語の土台の上に意識・心が乗っかっていることになる。

 今後の認知科学の進展に伴ってどちらに有力な証拠があがるか、それはわからないが、少なくとも、ゴゲイト&ホリックの説を受け入れるなら、自然言語システムそのものの生物学的基盤のあるなし問題をまたないで、既知の視聴覚と発声運動の複合が言語の生物学的基盤と見なすだけで良い。

    

    言語の先天説後天説の争いは、現代では、二者択一問題ではなく、言語のどこまでが先天的で、どこまでが後天的かを明らかにする段階である。

   チョムスキー説ではブラックボックスになってしまっている部分を、ゴゲイト&ホリックは埋めにかかっていて、そして、その企てはうまくいっているようなのだ。

 一般に現象学認知科学の意識研究に貢献する(とZahaviらが『現象学的な心(邦訳題名)』で主張する)ように、脳神経科学者といえども、神経パルスの反応データが何を説明するのか、そもそも研究対象である意識そのものを適切に記述する理論的道具が必要である。

 同じように、そもそもヒトという動物にとって、言語とはなんであるかを適切に記述するには、知覚と言語の関係がそもそもどうであるかを適切に記述する理論的道具が必要である。

 幼児の言語習得の「概念説」、チョムスキー流の生得説に不足しているのは、もし、言語がそのようなものなら言語がヒトを含みヒトより広く地理的に展開し長く時間的に、しかも多様に広がっている現実世界との関係を説明する理論が別途要請されることになる、それが欠けている。

 この時、ゴゲイト&ギブソンの研究を導いたのが生態学的心理学者であり、実験的現象学者を名乗るギブソンの考えであることは、重要である。

 現実世界と言語の関係を考えるうえで、世界の一義的意味を、ヒトの日常的に経験する生態系と、その中で生きるヒトとの相互作用として把握することになるからだ。

   先天的か後天的かという対立軸に、言語的次元と非言語・前言語的次元という対立軸がからんでいる。後者の対立軸の非言語・前言語的次元を心・意識の科学的探索に組み込むには、存在論レベルで、具体的な生態系を中心においた汎システムの見方を導入し、認識論レベルで、前言語意識と言語意識の癒合した交差メカニズムを解明してやらなければならない。

   このような文脈において、 日本語の「は」と「が」交差対立理論は、経験主義的な言語一般理論の一角に位置付けてきる。

 

 このような意味で、ゴゲイト&ほりっ論文は、わたしがこのブログでこれまで言及してきた日本語の基底文の理論も、ヒトの言語のひとつに位置付ける論拠になり、橋渡しになるのである。

 

 この論文は、公開されていて、Gogate&Horich 2011で検索するとヒットしてDLできます。

 

補足: 記号体系意味論の観点からは、自然言語シニフィエシニフィアンの恣意性を、知覚対象と音声記号の癒合状態からの離陸として見直す道が開かれる。

記号接地問題は、この立場からすると、離陸問題として解決が図られる。