tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

在野研究に至った経緯と現状

 ダーウイン「種の起源」が出てから、また、現象学の始祖フッサールが生まれてからも、ちょうど百年後にあたる1959年に私は生まれました。幼稚園の頃から、大勢に同調するのが苦手で会社員のようなことはできないと想像していたこともあって、小説家になろうとばくぜんと考えていました。

 公立大学の文学部に合格して二年目、専攻を選ぶことになり、サミュエル・ベケットが研究したいと思っていたので、英文科、仏文科で相談してみたところ、どちらもはかばかしい応答のないなか、英独仏語、さらにギリシャ語、ラテン語をやらされる哲学科に入りました。高校時代から興味があった現象学をやるつもりだったのですが、入ってから分かったのは、そこは、いわゆる「分析哲学」の関西の牙城でした。現象学はおあずけになりました。

 しかしながら、近代哲学の祖、デカルト研究の第一人者である先生について、数年かけてデカルトの「省察」をフランス語で読んでいただくという幸運がありました。卒論はデカルトの心身問題について祖述したものを提出しました。

 哲学研究科の院にも行ったのですが、自分の志向との齟齬がいよいよ障害となりレポートが提出できない結果につながり、中退しました。

 学習塾のバイトをしていましたが、たまたま、自宅の近所の日本語学校の教師になるための講習会があり、短期のミニコースでしたが、無事修了し、おかげで、第一回の日本語教師能力検定試験に合格しました。すでに合否発表がある前に、この講習会の長であった方が主催していた日本語教師のワークショップに入れていただき、姫路のベトナム難民定住センターの職につくことができました。これが、わたしの日本語教師としてのデビューです。

 その後日本語教師として、専任から主任となり、いくつかの日本語学校を転々とするなか、40代後半になったころ、00年代半ばに、思うところがあり、現行の日本語教科書の不足を補う作業を本格化しようと思いました。フリーのプライベートの日本語講師をしたり、英語教室を開いたりしながら、研究を開始しました。

 

 まあ、ここからがこのブログの本題に関わってきます。

 外国人に教えるための日本語教科書に不足があるとわたしが考えていたのは、ふたつの点で、一つは、「は」と「が」の使い分けを説明・理解する本質に触れる内容がないことでした。これは、どのレベルの教科書でもそうです。もう一つは、日本語のもっとも基本的な文構造、基本構文がリストのような形で整理できていないことでした。

 はじめは、気楽に考えていて、日本語学の理論を参考に、それを反映した教科書を作れば足りると想像していました。

 そこで、野田尚志先生の『「は」と「が」』を読みました。日本語教育の現場では、同じ著者のセルフマスターシリーズに「は」と「が」のドリルがあり、実際に使用していました。

 ところが、どうも、繰り返し読んだのですが、日本語ネイティブの頭のなかの「は」を使用する感覚、「が」を使用する感覚を反映した理論にはなっていないのじゃないかと感じ始めました。よくよく見ると、三尾砂のそれなりに根拠も説得力もある、「現象文」と「が」の繋がり、「判断文」と「は」のつながりに関する文法現象が理論に組み込まれていないところに問題がありそうだと気がつきました。野田先生の依拠するところは、三上章の「は」=主題表示本務説です。たしかに日本語文の顕著な一側面を把握してはいますが、大前提に据えていては、未解決の文法現象が置き去りです。それが、「は」と「が」の使い分けであり、ネイティブの頭のなかで起きていることに肉薄できてないと判断した次第です。

 それからのわたしの研究は二正面の作業となりました。

 実際に観察可能な日本語の文から、直接文法規則を抽出する作業と、三上章以前に遡り、日本語学の文論に関する主要な著書、論文を検討する作業と、このふたつです。

 その結果、すでに、このブログでも書いているように、基底文の表現する命題内容のふたつのタイプ(事態と定性関係)の区別を原理とする「は」と「が」の交差対立理論に行き着きました。

 いわゆる主題の「は」については、基礎理論の体系では、交差対立の効果による有標化による含意のひとつとして位置づけ、また、文単位ではなく談話単位に位置づけ直すことになりました。

 また、日本語文法の基礎理論の原理に据えた、文の二元性については、哲学、進化論、生身のヒトが情報伝達に利用する言語システムという考え方を導入し、自然言語一般に関する、自然主義的かつ経験論ベースの理論を日本語文法理論の根拠にしています。

 この根拠付けで、ここでひとつだけ参照した先行研究をあげるなら、Gogate & Hollich(2011) "Invariance Detection Within an Interactive System"があります。訳すと「相互作用システム内の不変項探知」となります。

   邦訳がないので読むのに時間がかかりましたが、この一本の論文が、自分の言語観と日本語文法の基礎理論の裏付けとして確信をもたらしました。

   ここでこの文献に言及するのは、箔付けのためではありません。次のことを強調するためです。

    日本語文法理論に足りなかったことは、日本語の特殊性に根ざすように見える主題と「は」のつながりを本質と誤解、あるいは、日本語文一般に当てはめられるとみなしてしまい、日本語にも備わる普遍的側面、主格ー述語の形態素複合形式の規則性を理論に組み込まなかったことです。また、発話者の文生成の認知的動機と文の機能的構造と意味機能の三者の相互関係を記述する枠組みが欠けていました。

    たとえば、「雨が降ってきた」という事実を現認し文を発信する人と、現場の現認なしに、その「雨が降ってきた」という文を受信する人とでは、心的に引き起こされる効果は異なっていて、本質的に非対称です。日本語の特質のひとつとして、こういった、ことばと実体験のギャップに関わることが、交差対立理論により、明確になるかと思います。

   

 こうした不足を補う日本語学への貢献が、このような在野の研究者の仕事として認められるものかどうかは、まったく未知数です。

 わたしは、一般社会への貢献としては、日本語の基本的な仕組みと、いわゆる論理的思考、または、直観にもとづく生活上の認識との結びつきを明らかにすることがあるだろうと思います。

    基礎理論の文の意味論には、真理条件意味論を応用しています。つまるところ、個人の発話する文の実在する自然界または文化社会的現象に関し、伝聞を除くと、正しい内容を伴うのは、論理的真理か事実としての真理かのいずれかに限られます。ただし、個人の信念は、また別の意味論的源泉が存在するでしょう。たとえば、思想信条のレベルでは、言語によるコミュニケーションの前提となる言語的共同意識と個人とのポジショニング選択によるでしょう。

 真理条件説の応用では、第一義的に実在と認められる自然界のマテリアルに関する文以外に、1物語などの虚構を構成する文、2意図的な嘘の文、3思い違いなどの錯誤に基づく文、4抽象的概念を用いた仮説、5個人または集団の意志、予定、計画などを区別するべきだと考えています。

 

    現状の課題は次のようなことです。

    8割方書き終えた原稿、A4用紙100枚程度、大小の互いに密接に関連しあっている論点の整理に難渋しています。

    頭のなかがスパゲティです。 

 

    教科書改良するにあたっては、こんな根拠で改良しました、と示すための資料を作成するつもりが、こんなことになってしまいました。

 今後の発表にご期待ください。