tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

「私の日本語文法の新しい基礎」(その1)

一般向けに私の日本語文法の新しい基礎の記事を始めます。

 

題して「私の日本語文法の新しい基礎」(その1)

 

はじめに

 日本語話者の統語感覚と構文感覚を解明して、「は」と「が」の使い分けを理解・説明し、文の二元論原理、「は」と「が」の交差対立理論、全ての日本語文の派生形の雛形となる基本構文リストに至る道

 

これは、日本語文法の基礎の一般向け解説です。

 新しい基礎文法です。

 文法が新しいとは、これいかに?

 学校で教えている文法と違います。

 さらに、日本語を研究する日本語学(旧国語学)の理論的文法とも違います。

 学校文法も、ある時期の学問的成果を反映したものですが、その後日本語学の方が転機を迎えて違ってしまったという事情がありました。

 基礎文法の利点は、どちらの「文法」でも、十分に理論的に説明していなかった、<「は」と「が」の使い分け>をきちんと説明できることです。

基礎文法のスタンスは、日本語ネイティヴである話者に備わる「統語感覚」と「構文感覚」を忠実に反映しています。通常、意識されませんが、日本語文の場合、統語レベルと構文レベルの二層式になっているのです。

 基礎文法は、文法と現実を直接関連づける文法でもあります。

 

 簡単に「統語機能」と「構文機能」の違いを言うと、前者は単語と単語の関係を示す機能で、後者は、人から人に情報伝えるときの分かりやすさや文脈を構成する機能です。

 主格―述語関係「犬吠えた」「みかん好物だ」が統語レベルの主格-述語関係の代表です。そして、このまま構文レベルの主語-述語構造が成立しています。統語レベル、これをもっとも土台になる骨組みの仕組みとしたら、構文機能は、その上に工夫を加えた仕掛けとでも言いましょうか。

 文の内容、命題をかえずに、上の代表例を違う構文上の主語―述語関係に変えることができます。「犬吠えた」「みかん好物だ」(後で説明する基礎文法の真骨頂である交差対立の例です。)

 次の例を使って、三者の文法の違いを見て見ましょう。意味が同じで、形式が異なる文です。以下の説明が分からなくても、心配しないでください。本文でわかるように説明しますから。

 

A「ウイルスが生物を進化させた」

B「生物はウイルスが進化させた」

 

 学校文法では、Aの「主語」は「ウイルスが」、Bには大主語「生物は」と小主語「ウイルスが」です。

 日本語学では、一概に言えませんが、最も多くの研究者が支持するのは、Aの「ウイルス」は「主格」、Bの「生物は」は「主題」とします。「が」は格助詞で統語機能に関わり、「は」は「主題」を表すとしています。両者に割り振ったそれぞれの機能は排他的に専有するものとされてきました。その上で、研究が続いています。

 基礎文法の立場からすると、「は」=「主題」という用語や排他的な機能の割り振りには、同意しません。

 基礎文法では、一文二層式を採用します。どちらの文にも「主格」と「主語」が認められるとします。AとBどちらの文も、伝える命題内容の意味は同じで、意味に加える含意だけが違うからです。

 文Aでは、「ウイルスが」が「主格」であり、構文上の「主語」であるとします。

 文Bでも、「ウイルスが」が「主格」であり、「生物は」が構文上の「主語」であるとします。本文で説明しますが、「は」と「が」の役割について、どちらにも格助詞、構文構成機能を認めます。

 基礎文法の立場から言い直すと、これまでの日本語学では、「は」には、「主題」という構文機能、「が」には主格という統語機能を割り振って、排他的に理解してきました。基礎文法は、そこを改めました。

 一文二層式の理解・説明を採用しないと、<「は」と「が」の使い分け>が解けないのです。先行研究者が試みなかった、一つの文に両感覚が重なっていることを認め、明確に分離し、整理しました。基礎文法は、原理を備えた体系的な文法理論です。ただし、基礎的な部分に限ります。

 以上、三者の文法のどこが異なるか紹介しました。ここに提唱する新しい基礎文法は、学校文法と日本語学のギャップを埋め、統一に導くものでもあります。

 補足として、ここで、一言、批判的な注意を加えておきたいことがあります。言説内容の正しさや妥当性を基準にしないで、誰がどの地位の人が発言したかに重きを置く社会的傾向があちこちに見られます。伝達上の便宜に関連づけられる「は」=「主題」機能を重視するあまり、文の形式と命題内容の関係に関わる統語機能を軽視する学説は、この悪しき社会的な傾向を押しとどめる力にはならないと思われます。

 

 基礎的な文法の扱う範囲は、ごくごく基本的なしくみに限ります。従属節は扱いません。つまり、主節だけです。敬語にもまったく触れません。最低限の文の骨組みに照準を合わせています。その代わり、厳密です。日本語には、形式と機能の一致が見られないと嘆く研究者もいらっしゃるのですが、形式と機能の一致点を見出すことは可能です。

 外国人が使う日本語教科書初級レベルが全部で50課までとすると、初めの20課ぐらいまでの、そのなかの基本的な文の構造に関わる部分くらいです。それに教科書でも扱わない内容を加えます。当然、新しい文法がこれまで顧みられなかったところに照明を当てるので、既成の教科書に欠けている内容の方が主な内容です。

 

 文法と聞くと、私は、日本で生まれ育ったし、文法なんて興味ない。知らなくても日本語が使えているし、などと思う方も多いでしょう。私もそうでしたから気持ちはわかります。

 文法など知らなくても日本語を使う環境で生まれ育ったなら、コミュニケーションに何の問題もありません。日本語を学習している、外国から来た人ならいざ知らず。古典を読むためなら文法知識がないと理解できないけど、現代日本語の文法は必要かな。何かの役に立つのかな。

 そんな疑問を持つ人には、基礎文法は、現代日本語のごく基本的な仕組みに備わっている、複雑精妙な仕組みを知ると言う知的好奇心の満足がありますよ、と申し上げたい。

 私個人は、日本語教師としての職業上の義務感から、<「は」と「が」の使い分け>をきちんと筋道立てて教えたいと思った時から、日本語文法に興味をもって、自分なりの結論に至ったものです。

 学生さんたちだけでなく、知的好奇心を忘れていない大人にとっても、鑑賞に耐えるスリリングな内容があるはずです。普段使っているコミュニケーショの道具、日本語の秘密がここに公然と暴露されています。わかって仕舞えば、何だ、そんなことだったのか、となるかもしれませんが。

 残念なことに、ある種のロマンチストが抱くような日本語特有の神秘のようなものはありません。誰にでもわかるように説明できます。より高級で複雑な、時に切実な表現だとしても、その土台はこの基礎的な形式と機能に過ぎず、高級さや切実さは言葉の側ではなく言葉が指し示す内容にあります。日本人の精神文化というものは、少なくとも基礎文法のなかに探しても、そんなものはありません。日本固有の文化の発露は、いいところも悪いところも日本語の運用にあるでしょう。

 かつて、時枝文法を提唱した時枝誠記(もとき)は、日本語または言語は、思想の表現であり、道具ではないと「日本語文法原理」で強く主張しました。基礎文法に限っては、情報伝達の道具としての機能をどう果たしているかの説明に止まります。

 トイレに入って用を足してから紙がないのに気づいた時、「おかあちゃ〜ん、紙、持ってきて〜」という表現に「思想」はありません。しかし、言葉がないのと比べると、遥かに便利な機能を果たします。

 社会的分業、意思や価値観の表明、過去の記録に将来の計画、複雑な対象に関する理解、科学、文学、法律、政治、哲学、倫理などなど、数え始めるときりがない多様な活動は、言語なしには不可能です。そのような高度な日本語の運用や内容は、基礎文法にとっての管轄外です。それらが可能となる日本語の土台となる基礎に限定しています。日本語と日本文化の関係に関する基礎文法の結論は、他の言語が実現している機能を、日本語固有の形式で実現する仕組みがある、ただそれだけのことです。

 がっかりした方がいるかもしれませんね。その代わり、日本語の文と現実の関わりをきっちり抑えた文法になります。文と事実、文と論理の関係の確認することが基礎文法の肝です。

 文の形式を見て、論理的明快さ、認識論的確実さについて、判断し、分析することができる用になります。例えば、曖昧であやふやな日本語で人をケムに巻く、宣伝、扇動、詐欺など、言語添加物やフェイクに対応する篩(ふるい)・フィルターになります。

 哲学と聞くと顔をしかめる人が多いことも知っています。でも、文法を入り口に、これ以上手間のかからない論理部門と認識論部門の哲学入門にもなる、と言ったらどうでしょうか。

 

 新しい基礎文法の利点は、「は」と「が」の使い分けが説明できることだと申しました。理論的には、これが突破口となって、学校文法と日本語学の文法理論の限界を超えることができたのです。基礎文法の立場からみて始めてわかることは、どちらの文法にも、基礎が、言い換えると文法の土台部分が確固とした基盤の上に建てられてはいなかったということなのです。

 近代の日本語学が始まって以来、文法研究が目指した理想のひとつは、日本語を学ぶ外国人に辞書と文法書を与えれば、自力で正確な日本語文が作れる文法でした。筆者である私は、日本語教師として、実際に、その理想にかなり近づいた文法理論ができたと考えています。

 学校文法の「主語」は、英文法の主語とは違います。このことを主な根拠として、助詞の「は」は「主題」を表すとする説に依拠し、「主語」を強く否定した三上章さんの研究が出たあと、日本語学の文法理論は、「主語」を認めず、「は」の「主題」を軸にするか、そうでなければ、「主語」を再定義したいけれどもうまくできないといった状態のまま、かなりの年月が過ぎました。

 このような混乱を整理して、いくつかの課題を解決するのが新しい基礎文法であるというのが筆者、わたしの主張です。

「は」と「が」の使い分けは、どのように説明できるのか。

日本語特有の「主語」をどう決めるか。

「は」の「主題」説はどこまで有効か。

日本語にも、英語の五文型に匹敵するものはあるか、あるとすればどんなものか。

 こうした課題に応える基礎文法は、理論的に新しい見方を導入した結果できたものですが、この文章では、基礎文法そのものの説明を主にして、特に論証はしません。

 理論的根拠、論証が気になる方は、わたしの書いた別の論文をご覧ください。このブログの過去の記事、こちらは、専門的な研究の成果と検討を踏まえた上で、基礎文法の体系を構成する各々の主張を論証しています。

 

 では、次回から、例文にそって、わかりやすく説明していきます。