tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

着想メモ(2) 大脳皮質の層が分厚いヒト、代わりに部分的に犠牲にしたのが<直観的行動力>

これは、去年のはじめに途中まで読んだ本で学んだこと。人間は、知的能力を得た代わりに、生物として生きる上で大切な<直観的行動力>を部分的に犠牲にした。
このことは、このブログでもすこし言及が既にある、比較認知学の<トレードオフ仮説>、人間とチンパンジーを比べると、言語による情報共有を可能にするために、<直感的な描像記憶>においては人間の方が劣っている、という説と合致する。

 

その本は「人間とは何か」(ちくま文庫)。上巻の半分くらいまで読んだ。

 

考古学では、現生人類とその祖先である古代人類のあいだに、能力の差はないものおするという。初期人類のことを想像してみよう。

 

ヒトの大脳皮質が分厚くなったことで、言語を今のように使える能力、世界の構造の把握と世界モデルの構成と集団的共有、出来事と知識の記憶、刻一刻と移り変わる逐次情報の共有、知識・技術・技能の世代間伝達、推論や予測、仮説と実験、集団の大規模事業、さらに、書記による社会集団の分業、技術開発、農業・牧畜など自然環境の改変etc.

 

こういうことの基盤は、直接見知りのある人や物、それらが占める環境、その拡大である世界モデルを、言語を通じて、社会文化的に共有する、言語に依存しながら働かせる想像力による<言語共同体的世界モデル>と言えるだろう。これを近似的に有効活用してきた。初期人類は、ことば・火・旧石器を使い始めて以来、環境に適応し、人口を増やし、大規模の社会集団組織を形成し、営んできた。

 

こういうことができることを、20世紀の愚行が破壊した18ー19世紀の<理性的動物としての人間観>、動物と比べて人間だけが素晴らしい生き物だという価値観、人間中心主義?ーーーを顕在的あるいは潜在的に人々が抱いてきたのだが、いまや見直されつつある。

歴史的に見直すべきことは多いが、初期人類段階、地球表面上に散らばって生存していた、素朴な狩猟採集生活をしていた旧石器時代、初期人類の内面生活を占有していたのは、直接感覚知覚でき、生き物としての欲求の対象である、食べ物、快適な環境、天候の変化、所属集団内の人間関係などであり、余裕がある場合、行動範囲を超えた、時間空間的な外の世界についての気がかりだろう。

<先祖>がどこからきたか、どんな暮らしをしていたか、移動して来た理由、道中の出来事と教訓など、これらは、世代間で共有すべき情報だったはずである。こうした、直接見知っている行動範囲での活動を超えた、<外的な世界>の存在認知と包括的理解について、潜在的な仮説として、<神>と<呪術>の有効性に関する何らかの複合観念が<言語共同体的世界モデル>に加味されたと考えられる。

それはおそらく要請であり、人間個々人にとっては減衰し、内的に知性=言語の行使により不全感を伴わざるを得ない<行動的直観能力>の部分的な回復でもあっただろう。

 

1)生きていくことが可能であること、2)できるだけ快適に生きられること、可能性の前提として、または、これらの課題の解決可能な世界=生活世界を、包括的に理解し受け入れその中で生きる補助線的な世界観をもつことが、(単に、狩猟採集から農業牧畜などの生活技術を代々洗練させるだけでは説明がつかない物事に関して)集団にとって要請されたことだろう。

個別具体的な出来事において、<神><呪術>は、たとえ、いくら不確実な事例が積み重ねられたとしても、うまく行った場合の事例の解釈もふんだんに事実上存在することから、知性と直観のあいだにそのほつれを縫い合わせる知恵として、人間に顕現した。

歴史的注としては、井筒俊彦が扱っているような(いえいえ、未読です。これから読もうと思っているだけなんですが)ユーラシアに広がった各文化圏の神秘思想は、都市国家が発展し、領域国家が身分制・他国との敵対関係、自然環境変化や感染症などを避けられず、多くの人々が社会を支える土台となりながら、あるいは、そこから弾き出されながら味わう苦痛の救済として提起されたのではないだろうか。