tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

<「は」と「が」の交差対立>と「基底文モデル」(つづき)  交差二項対立による含意発生のメカニズム:    個人的意識間のコミュニケーションとしての文の伝達経路

 「事態・直観文」であれ、「定性関係・判断文」であれ、「は」と「が」の交代によって有標化するかしないか、これは機械的に決まっていた。これまで調べた例では、事態文か定性関係文かという命題タイプの二元的区別上に、「は」または「が」のどちらが入っているかを考慮するだけでよかった。

 だが、有標化した場合の含意内容は多様であり、その決定は、命題タイプの区別だけでは決まらない。含意内容の決定には、文脈との関連を見なければならない。コミュニケーションの土台となる情報経路と有標化された文の相互関係を明らかにしなければならない。

 この節では、有標化により生じる複数の潜在的含意のうち、一つの含意に決まる要因について論じる。含意の決定は、人と人を介してやり取りされる文が、やりとりのどの段階と関連付けて有標化されたかにかかっている。

 

1)発信者の認識に関連付けられる含意

 文の発信者にとって、なんらかの認識、考え、意思、気持ちなどを命題として構成する段階で、新たな気づきがある。

 無標の事態・直観文「主格+が+事態(動的動詞)述語」

         「雨が降っている」(含意:発見、注意喚起)

 有標の定性関係・直観文「主格+が+定性関係述語」

         (計算を見直して)「ここが間違っていた」(含意:発見)

 有標化の事態・判断文

         「あのとき、かぎはかかっていなかった」(含意:確言)

 

2)受信者の認識

 発信者から受信者へと伝達される文全体か、格成分が、受信者にとって「新情報」であるとき。

 有標の定性関係・直観文「主格+が+定性関係述語」

        「これが大阪城です」(含意:教示・ガイド)

        「あいつが犯人だ」[前方焦点・全文焦点](含意:発見・教示)

 有標の事態・判断文

       「合否通知はまだ来てないよ」[後方焦点](含意:題目取り立て)

 

 「あいつが犯人だ」には、無標の「車が来た」と同様、明らかに全文焦点・注意喚起含意もある。この可能性を踏まえて、二つの焦点化可能性を示した。

 含意は、最終的に1)と2)のどちらに関連しているかによって決まる。

 これまでの類似の研究を調べた範囲では、文の意味を文単独でしか扱っていないという問題があった。大前提として、文の意味を文脈から切り離して解釈する場合、文意が一意的に決まらない場合も考慮すべきである。

 以下で、考察するのは、日本語母語話者が無意識に利用している枠組みの適切な言語化である。それは、母語話者にとって、交差対立による含意生成の土台となっているコミュニケーションが依拠している枠組みである。この枠組みは、自動化していて、普段は意識されない。

この枠組みの理論面での貢献は、この自動化した枠組みを言語化し、理論的に解明することによって、これまでの研究で示されてきた、「は」と「が」の使い分けの説明のひとつとして著名な旧情報・新情報という捉え方に残る曖昧さが除去できることである。

大野晋(1986:「日本語の文法を考える」)の提唱になるこの考え方では、簡単にまとめると、「は」の入る文では、あとにくる述語が新情報で、「が」の入る文では、前にくる主語が新情報であるというものである。

この説について、次のような問題点が指摘されている。

文ぜんたいが新情報にあたる場合である。

その後、焦点の前方・後方の区別や、措定と指定の区別(上林洋二1988「指定文と措定文」)などが、問題への応答として提起されている。これらも、また、基礎理論の体系に位置付け直すべき、実質を備えた概念である。

拙論では、有標化した文の含意決定問題の観点に基づいて、交差対立を利用している当事者、つまり母語話者の個人的意識の相互作用という土台の上に置くことにより、この問題は解決出来る、と考える。そのあとは、素直に、文全体、すなわち、命題内容全体が新しい場合と格成分が新出である場合、述語が新出である場合とに場合分けして整理することにより、解決を図る。

 ところで、拙論の先駆的指摘が見られる「「は」と「が」の使い分け」(1987)という論文で、大槻が示した解決は、「は」にも「が」にも固有の領域があり、両者が相手の領分に侵入し、文意を変更するという卓見を示したにもかかわらず、これに伝達的配慮が加わると、この作用は解消するとした。拙論は、解消どころか、例外的に見える場合さえ、交差対立現象の枠組みによって一貫した説明ができる、という立場である。

 大槻が「解消」を認めた理由は、三上章の「は」=主題表示本務説やそのほかの「は」の提題説を考慮してのことだったのかどうか、これについて言及がない。

 

拙論では、「は」の機能を次のように腑分けした。

①「は」の有標または無標の基本構文を構成する機能

②統語レベルで「連辞」として振舞う機能の両方を腑分けする。

こうすると、「は」には、統語レベル、伝達レベルにどちらにも「判断」という認識様態から脱していない共通点が明らかになる。

 

以下では、交差対立理論のまだ論じ残している反面、「は」と「が」の交代によって有標化した文に生じる含意発生の機序について論じる。

 

<情報経路と含意決定条件>

 

「が」が「定性関係文」に入り、文を<直観に関わる文>とする有標化の含意分析

 

(1)例:「これがエッフェル塔か」文の命題内容に関する発信者の認識の情報

   ギャップの充足に関わる含意。「発見」「意外性・驚き」「感動」「落胆」

   など。

   (上記含意のどれも可能性がある)

(2)例:「これがエッフェル塔です(よ)」

   同じく発信者から受信者への情報ギャップの充足に関わる含意。

   「教示・ガイド」など  

(3)例:「これがエッフェル塔か」さらに修辞的な含意付与、具体的状況での

   文の解釈に関する発信者・受信者間の文の解釈の相違という状況文脈を

      前提として初めて成立する含意。

   「発見」「確認」「皮肉」「賞賛」など

   (口調によっても含意の毀誉が分かれる。

   がっかりしたような言い方をすれば、皮肉など価値否定的な含意、感嘆

   調で述べるなら賞賛などの価値肯定的な含意となる。もっとも、そのよ

   うな解釈の基盤は、話者自身による表情や身振り表現が付随するだろう。

   また、言及対象に関して予備的に得られた情報にもよるものである。)

 

 無標の文と有標の文の使用条件と含意の多様性の区別は、文が必然的に通過する経路、発信者から受信者への情報伝達の経路の各段階通過過程で生じる。

 文の通過する経路は、

 A:発信者が、事態文の場合の出来事の認識や、判断文の場合の対象に関する判断など、対象に関わる何らかの認識を動機とし、動機に基づいて文を生成・発信し、

 B1:受信者に対し文として発話し、

 B2:文と状況のズレによるレトリック含意

 C:受信者が受け取って解釈する。

 一連の情報経路の流れは、実際の文の運用において不可避的な枠組みである。

 これが、「は」と「が」の交代による「有標化」、すなわち、何らかの含意を付与する機能の前提になっているとみなされる。

 この枠組みを図式化してみよう。

発信者

受信者

認識

文の生成

文の発信

文の受信

 

A

受信者自身の認識に伴う有標化

「が」1

 

 

 

B1

発信者から受信者への情報提供

「は」1,2,3

「が」2

 

B2

文と状況のズレ

「が」3

C

受信者が

受け取り、解釈する

 Aの場合、文の発信者にとってその認識がなんらかの特異性があるとき、有標化する。「確言」「直観に関わる文」

 B1の場合、文の有標化は、文を発信する前段階で、発信者が前提とする受信者の情報条件からのフィードフォワードが働いて、なんらかの特異性があるとき有標化する。

 B2の場合、発信者の考える一般的な文の意味の許容範囲と受信者の意味許容範囲がずれているとき有標化する。

 ここで、含意発生の土台と多様な含意の決定因子を明らかにすることができたと思われる。

 

<個人主観の相互作用としてのコミュニケーションと言語的共同主観>

 

 ところで、この枠組みは、言語使用者の意識に関する重要な見解を導く。この見解について、指摘しておきたい。

 第一に、会話に参加する発話者(文の発信者)とその相手(文の受信者)の意識モードが異なること、つまり、個人的主観と言語的共同主観の落差の存在である。

そもそも含意機能が生じる機序である情報経路が、個人の直観的意識と言語によって集団的に構成する共同主観意識との間の落差に由来している。

 有標化含意の内容が意識の落差を越える文の伝達情報経路のどこに作用するかに依存しているという事実が示唆するのは、次のことである。

 “直接知覚による認識は、あくまで個人的主観レベルにとどまり、文の発話は、言語を共有する個人同士の個人的主観を超えて、言語的共同主観のレベルに、互いの意識を移行させて成立している。また、日本語の「は」と「が」の交代による有標化は、この個人的主観意識と言語的共同主観の区別に関わっている”ということである。

 Aの有標化は、個人的主観意識上で発生している。知覚レベルから文の生成という言語レベルへの移行に伴って生じている。他方、B1・B2の有標化は、発信者から受信者への文の受け渡しに伴い、受信者の個人的主観意識に向けた情報の開示や伝達に関わって、生じている。

 なお、「は」と「が」の選択そのものが、言語的共同主観意識のオートマティックな文形式選択に依存しているので、コミュニケーションの内容に没頭し、注意を集中している個人的主観にとっては、こういった情報経路段階のどこで含意が発生しているか意識されにくい。

 もっとも、意識されないのは背景のメカニズムであって、「は」と「が」の交代による含意情報は、伝達できている。「は」と「が」の交代による有標・無標の差異化それ自体も普段は意識されにくいままであった。むしろ、こんなことまで意識していては、通常の日本語によるコミュニケーションには支障が生じるであろう。

 しかし、理論的関心に従って、このような枠組みと文との関係を反省し精査することは有意義であると考えられる。

 もし、このような背後ではたらく意識モードの切り替えという枠組みをリアルタイムで観察しようとすると、めまぐるしく切り替わる様子が観察されるのではないだろうか。

 

 ここで、基底文である無標の文形式は、事態直観文であれ、定性関係判断文であれ、交差対立により有標化した文よりも基底的な文形式であることの確認ができた。また、当然、文脈条件によっても左右されることが比較的少ない。

 第二に重要な認識は、われわれが心的に有する言語的共同主観による意味論的世界モデルの存在である。意味論的世界モデルは、現実世界の断片の総合による個々人に分けもたれている。また、主要部で共通している世界の写しとしてのモデルである。これが言語のやり取りの基盤である。意味論的世界モデルは、相対的に恒常的でありながら、時々の個別の会話などによる文のやりとりに応じて、部分部分は絶えず修正される緩やかな流動性を備えている。

 

<日本語の直観意識と言表意識の区別>

 

 「は」と「が」の交差対立現象群の理論を求め、言語と認知の関連から探り始めて、基底文の二元論、個人的主観意識と言語的共同主観意識という意識の二元モード(これは前述定レベルであるけれども)、そして、日本語という言語システム内の前述定的直観と言語の区別の反映の認識まで、進んできた。

 「もの」と「ひと」が構成するスタティックな世界、「もの・ひと」が生成・運動・変化・消滅するダイナミックな「こと」的世界の区別が日本語文法の基本的な仕組みに関与しているようでもある。

 以下では、個人的主観意識と言語的共同主観意識情報ギャップが、交差対立以外の日本語の文法現象にも認められることを指摘する。そうして、日本語という言語システムの統語および構文構成に対し、前述定レベルの知覚に基づく直観意識が文形式と機能におよぼしている直接の影響を明らかにする。

 いわば、日本語の文法の中に、生の直観とそれを言語化した言表とを区別する意識の痕跡の認められることを考察する。

 

<「の・こと」「のだ」の個人的主観情報の開示表示>

 

*直接知覚による直観に関する内容と言語に依存性の強い内容の区別:「の・こと」

 

 「の・こと」の知覚動詞と思考動詞の使い分け、たとえば、

「田中さんが散歩しているのを見た」に対し、

「×田中さんが散歩していることを見た」は、非文となる。

(ただし、「田中さんが散歩しているところを見た」は許容される。)

 

「田中さんが散歩していることを知っている」では、「の」も「こと」も、許容される。

 この場合の「こと」は認知した出来事の言語化されたもので、「知っている」かどうかでは現認の有無は関与しない。たとえば、直接現認に基づく知識であるか、伝聞による知識であるかに、「知っている」ことは関与しない。

 このように、日本語には、直接知覚による直観に関する内容と、言語化された「こと」を区別する仕組みが、交差対立の有標化以外にも存在する。

 また、この文での「田中さんが散歩していること」の「が」は、「基底文」から見て、文法化した「が」として、現認と直結した「が」の入る「ほら、田中さんが散歩しているよ」とは区別すべきであろう。

 

*コミュニケーションの経路、個人的意識の内容の開示標識:「よ」「のだ」

 

 「みなさん、これが大阪城です」には、<教示・ガイド>の含意があることを確かめた。また、この文が「定性関係」に関する自明性の伴う二義的直観を伴っていること、その直観が話し手にあり、相手にないことにより、情報ギャップを超える受け手にこの文が向かうので、<教示・ガイド>の含意が生じるという理論的解釈を述べた。

 このように、文ぜんたいを有標化し、情報ギャップを超える文であることを表示する形態素は、まだ、他にもある。

 

<「文+よ」>

 分かりやすいのは「よ」である。

 「財布を落としましたよ」(相手が知らない時、気がついていない時使う)

 「財布を落としましたね」(相手が知っている時、気がついている時使う)

 

<「文+のだ・んだ・のです・んです」>

 「文+のだ」が個人的主観レベルの認識の開示に使用される場合、たとえば「実は頭が痛いのですが、今日は早退してもいいでしょうか」は、個人的主観レベルの認識を言語的共同主観レベルへ移行させる場合に多用される。

 

 ここでは、個人的主観意識の内容を相手に開示することの自覚が含意の核となっている。

 「実は、お腹が痛いんです。早退したいんですが」

 この情報ギャップの自覚を核とする文ぜんたいの有標化により生じる含意は、説明、告知、強制、強意などとなる。

 疑問文と一緒に使うと、「知らないから教えて欲しい」という答えを強く望む含意や、疑い・詰問・抗議の反語的含意が生じる。

「博士、タイムマシンを発明したというのは、本当なんですか」(知りたい)

「本当に病気だったんですか」(疑い)

「どうして、あんなこと言ったんですか」(詰問・抗議)

「あなたのどこが責任者なんですか」(反語・皮肉)

 

 文の発信者による文の生成は、個人的主観意識レベルで、言語的共同主観意識への移行過程を前提に含んで成立する。一方で出来事の知覚は、個人的主観意識を超える知覚的共同主観意識のレベル以上に出ない。現場にいなかった人に出来事を伝えるのは、知覚に比して、情報としては言語の限界内で、情報が圧縮・逓減されたものとなる。

 日本語の文形式を構成する形態素の中には、この違いに敏感なものがある。同時に、この違いを保存しつつ通常は気にしなくても運用できる両義的機能を孕む文法であるのかもしれない。

 以上が、文の生成から発話、受信という経路に関わる意識のモードと日本語の文に関する考察であった。

 この考察が示唆するのは、文の生成と受信発信と解釈の背後に暗黙の前提として働いている次のふたつの枠組みが考えられる。

1)個人的主観に与えられる直接知覚と文の対応関係

2)文の受信者と発信者との間にある情報ギャップ

 交差対立による含意生成だけではなく、終助詞の「よ」「ね」、「〜のだ」構文によっても確認できた。日本語の文は、これらふたつの暗黙の前提を、いわば、暗々裏に利用することによって、日本語の文の運用の表現のバリエーションを実現している。

 

 

<基底文の二元性とボトムアップトップダウンの相関>

 

 日本語文では、個々の文がたどる情報系路上での文の発信者・受信者間の情報ギャップに合わせて、多様な含意を生み出す機序が背後にあることを確認した。

 以下は、さらにその続きの考察である。

 情報経路の上りと下り、ボトムアップトップダウンの区別として、先の情報ギャップを、基底文の二元論と合わせて捉え直してみよう。

 このような考え方は、国広哲也2015(「日本語学を斬る」)でも、脳科学の観点を取り入れて示唆されている。

 

 まず、結論を先に示す。

 基底文の主要構成要素は、命題内容の「出来事」「定性関係」の区別と認識様態の「直観」「判断」の区別の四つ組概念からなっていた。

 

 

命題内容

命題の認知過程

認知過程相違点

雨[が]降っている

出来事

知覚レベルの直観

ボトムアップ

これ[は]みかんだ

定性関係

過去の参照を伴う判断

トップダウン

(+ボトムアップ

 以下はこのマトリクスの形成についての説明である。 

 

「これはみかんだ」の認識過程

 ①ある対象の指示、<目の前にある対象>と「これ」の対応

  厳密には、ある対象への関心による他の対象ではなく「この対象」の知覚

  レベルの「取り立て」が作動して「これ」と指示する。

  • * 注)知覚レベルの「取り立て」は、一般に心理レベルの「注意」であり、

  「注意」は直接文レベルの「は」による「取り立て」には結びつかない。

 ②<目の前にある対象>の種レベル・カテゴリーレベルの同定「みかん」

  =「みかん」というラベルによる対象の措定

  =過去の「みかん」ラベル付けとの対照

 ③ ①と②のふたつの記号「これ」と「みかん」の統語レベルの結合

 実際に認識過程まで含め、「判断文」の構成過程を捉え直すと、「出来事」文よりも踏むべきステップが数段多い。

 「出来事文」では、対象の動きに注意が注がれ、知覚レベルでは、一挙に対象ラベルと動きのラベルの結合を対応させることができる。確かに三尾の言うように、文の発信者にとって隙間はないかのようである。無標の場合、「判断」の関与は、少なくとも文の形態素レベルでは見られない。また、発話者が嘘をついていない、対象に関する誤認がないという前提を受け入れる。グライスの「誠実条件」をここでは採用しておこう。

 このように一挙になされる語と語の結合による「出来事文」の生成過程を「ボトムアップ過程」とする。「ボトムアップ過程」というのは、文の生成過程での、知覚と形態素各部分の対応付けが、知覚→形態素という方向性を示すものである。

 「雨が降っている」であれ、「みかんが落っこちた」であれ、「が」は、

知覚→形態素「が」の一方通行で成立する。

 「判断文」では、語ラベル同士の結合の妥当性について、知覚→形態素「は」だけではなく、意識レベルで記憶にある過去の知覚対象<みかん>と対応する語ラベルの参照が必要で、そのことが文の生成と発話に至る過程に関与している。そこには、語ラベルの側からの認識対象への対応付けが含まれる。

 「これ=みかん」というもっとも単純な「措定」であり、この「措定」は経験的事実根拠のみに基づくものであるから、過去の妥当な実物と語の対応関係の参照というステップを踏まなければならない。これを「トップダウン過程」としよう。記憶にある語ラベルの適切な過去の使用例を携えて、新規に目の前の対象に当てはめる。

 「出来事文」の知覚対象→語ラベルが現認のみからの一方向で済むのに対し、単純な「措定」であっても、「判断文」では、現認のみでは済まない、知覚→「は」と「は」→知覚の双方向性が要請されている。

 この区別を文の生成に関わる「ボトムアップ過程」「トップダウン過程」の違いとする。

 この区別は、「措定」の「判断」が知覚に依拠していても、それだけでは完結せず、過去の参照、つまり記憶からの情報の参与があることを意味している。

 現認した知覚対象<みかん>と過去の<みかん>との「関係」は現認のみによっては知覚できない。

 結論:「措定判断」過程は現認知覚と過去知覚を関係付ける過程である。

    「定性関係・判断文」は、最も単純な文でも最低二重の措定判断が伴

    う。

 

 「判断文」の命題内容の規定根拠は、論理的には「指示対象が「みかん」という種に属する」ということであり、さらにその経験的意味のタイプとして、「個体に関する語ラベルによる措定」であるとする。

 

 以上の分析を踏まえて、文「これはみかんだ」に寄り添って、記述し直すと、「判断文」の命題内容は、論理的規定の経験的由来に着目した記述を優先し、「指示対象「これ」と「みかん」の述語付け」、つまり、対象とカテゴリー語ラベルの相対的恒常関係づけである。

 判断文の定式とした「主語+は+述語」の述語に当たる「みかん」には、「出来事文」のようなアスペクト性はない。

 そこで、文の命題内容の区別を明確にするため、名詞述語のテンスやアスペクトを逃れて成立する述語的意味を「定性関係」と定める。つまり、主格になる対象についての「相対的に恒常的な述語ラベルの関係」を「定性関係」とする。形容詞述語も名詞と同じくテンスやアスペクトを逃れているので「定性関係」を含むことができる。