tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

「は」と「が」の交差対立理論の概要⑥ 有標化による含意効果の分析

「は」と「が」の交差対立有標化による含意効果の分析

 

<基底文を有標化する「は」と「が」:交差対立現象を可能にする二元性>

 言語を運用する意識にとっては、「事態・直観文」と「定性関係・判断文」は、同一平面上の基底レベルにある。ところが、その文の発話に至る前の、ものごとを認識する段階では、はっきりとした違いがある。

 つまり、個人的意識の対象直観において見るならば、「事態」は、自明で完結した全体が一斉に対象の側から与えられるのに対し、「定性関係」は、「もの・ひと」のある側面(性質)や状態、カテゴリーなどを文脈に応じて関連づける思考に依拠していた。

 

 ここからは、「は」→「が」交代、「が」→「は」交代、それぞれによる有標化と「直観」「判断」の結びつき、その違いを確かめる。

 

[「は」→「が」による含意発生の確認]

 当然、文のつなげ方(主格—述語のつなげ方)にも違いがある。

 たとえば、事実レベルの定性関係判断(「このパソコン故障している」)は、主格(パソコン)に関する述語選択(措定)により、「定性関係」の無標レベルの構文選択に従う。

 それを発見含意の伴う場合(「パソコン故障している」)は、定性関係判断の成立した事後の二義的直観の自明性に基づいて「は」を「が」に交代させている。

 この例文ならば、「が」に「発見」含意が伴う。「発見」の含意は、「判断」ではなく「直観」に由来している。

 ところが、直観による情緒的興奮のほとぼりが冷め、それを再認識し言表としての妥当性判断含意を付与して述べる場合、「は」を用いる。「主題」の「は」と言われる、「取り立て」の根底には、「判断」が必ず横たわり、「取り立て」機能は「判断」に由来している。

 

 注)本書の「は」=主題表示説への批判的修正点は、この点にある。

 つまり、「は」の判断性表示は、常時、機能しており、「取り立て」機能は、文の内容とその文の置かれる文脈によって、あったりなかったりする。また、「取り立て」による含意は、「確言」であったり、「限定」(例:テーブルはは少なくとも10個必要です。漫画も読むこと読む。)であったりと多様に変化する。

 ひとつの文が「主題」に関わるのは、応答の流れの中での「題目」であるところまでは認められるべきだろう。しかし、「題目」が会話の流れ全体のなかで「主題」となるとは必ずしも言えない。「題目」も、「確言」や「限定」に並ぶ「は」による有標化含意のひとつである。

 その上で、「主題」表示機能は、談話単位でのみ認められるべきである。

 補足として付け加えると、「は」以外の助詞つき名詞句が「談話の主題」であることも、よく観察される日本語の文法現象である。(注終わり)

 

[「が」→「は」による含意発生の確認]

 これに対し、「雨降っている」の有標化である「雨降っている」のような「事態・判断文」の場合は、ここで「事態」に関する直観について、次のような思考過程を経ていることになる。

 「判断」は、

①知覚対象に関する語ラベル付与が妥当かどうかの判断、

②ある語と述語を結びつける命題構成が妥当であるかどうかの判断

 これらの二つに限る。

 ①の例は、「これはみかんだ」「あの人は吉岡さんだ」など。指示対象が現場の現認を伴う場合。

 ②の例は、「みかんはくだものだ」「みかんは野菜じゃない」など。指示対象が、現場の現認をともなわず、談話文脈に依存する場合。

 

 会話例

 「昨日、雨降ったっけ。」

 「うん。昨日、雨降ったよ。/いや。雨は降らなかったよ」

 

 直接間接に現認の伴う事態という事実に関する判断は、常に流動的な現実の自然界や社会的な対象に関する直接的な直観から来るが、その再認識を述べるとき、語と語の結合妥当性判断過程を経たのちに発話される。

 この時、「雨+は」の部分に「題目」表示機能も同時に加わる。「題目」表示機能は、認識様態の区別が先立っていて、これに伴う事後的付随的機能である。これも、「基底文」の無標に比べて高次の機能である。本書の認識論的な日本語文の見方の開発の努力は、この主張の論証を目的にしている。少なくとも、現代日本語を共時的に見るなら、このように結論づけられる。

 

<「は」と「が」の交差対立の言語表現としての効用>

 ここで、<「は」と「が」の交差対立>の言葉の運用レベルでの実用的効用に関する私なりの見解を解説しておく。

 出来事は、その都度、一回限り起きることであり、その場で直接現認するしか認識する方法はない。出来事そのものの成立と認識は、人にとってあくまで受動的である。だが、類似の出来事が反復して起きることも稀ではない。一回限りの出来事が起きたのだという事実を言いたい場合と、ある対象に関する類似の出来事の起きる傾向を述べたい場合とで、言語表現の区別があったほうがよい。(「太陽東から昇った」=一回限りの出来事、「太陽は東から昇る」=経験によって知った法則)

 実際の日本語の運用において、現認した場合の「が」と、何らかの含意を加える「は」の使い分けは、この個別と一般の区別も担っている。英語やドイツがなどでは名詞につく定冠詞・不定冠詞の担う機能である。

 このような見方は、本書だけではなく、安藤貞雄「英語の論理・日本語の論理」にも見られる。

 注:「科学としての言語学」というチョムスキー理論の概説書の一説に、日本語には、定不定の冠詞にあたるものがないという著者の発言に米国の研究者が、言語に普遍的な機能であるそれがないのは、理解しがたいという一節があった。(注おわり)

 経験法則として、ある対象の変化の傾向への言及は、知識として有用であり、ある一回限りの出来事への言及は、事実の連鎖という個人的あるいは集団的記憶の蓄積として有用である。

 定性関係に関する言及は、目の前にある対象であろうが、目の前にない対象であろうが、語によって措定可能な<もの>(あるいは<ひと>)に関する別の何かとの特定の関係づけである。一般に、措定可能な対象の存在は、恒常的であり、関係づけられる<別の何か>との関係は、恒常的な場合もあれば、一時的な場合もある。

 ただし、恒常的な場合も一時的な場合も構文形式として「X+は+定性関係述語」をとるのが日本語の基底文の構文制約である。

 知識としての関係判断の言及は、聞き手の知識を増やすか修正させるような働きかけであるが、そのことを自覚して、相手に対する情報提供である文として発信していることを表すのが「この人中村さんです」や「これ大阪城です」のように、現場の対人関係において、「教示・ガイド」などの含意となって表現される。

 これは現象として新情報・旧情報のちがいと言われてきたことである。そういった含意発生の機序について、交差対立の観点からは、以上のように解釈する。

 共時的視点による分析の補足的な理解は以上のようになる。

 

 通時的には、無標の「は」と「が」は、文法化して統語レベルの機能を果たす基底機能を担う側面と、文法化しきれずに言表レベルの直接の直観や二義的直観に由来する機能を残した側面が混交して、交差対立を成立させたのだろうと推測している。

 文法化して現代日本語に生き残っているのは、修飾節内の<主格—述語>関係の「が」である。「私買った本はこれです」の「が」は、機械的に「は」との交代は不可である。

 文法化しないで、生の直観と結びついたのが「雨が降っている」の「が」であり、「空が青い」の「が」であるだろう。

 名詞を修飾する節のなかの「が」

 

 古語の「ひと+「が」(所有格)+名詞(格成分)を何々する」(起点)

 

 →「ひと主格+「が」+不定動詞+名詞(格成分)を何々する」(移行期)

 

 →「ひと主格+が+述語(終止形)」(現代)

 

 …と移行したのであるならば、通時的には、文法化過程が起きたと考えなければならない。(大野晋「日本語の文法を考える」)

 通時的には、係結び終焉後、近世のいつからか、そのような口語表現が発生し、定着したという仮説が立てられるのではないだろうか。ただし、その検証は、共時的観点に専念する本書の埒外であり、現時点の筆者の能力を超えている。

 

「は」と「が」の交差関係:「が」「は」の「中立叙述」の基底性

 

 これまでは、「が」にしか認められていない中立叙述について、交差対立と基底文の理論の立場から、新たな理論を提起する。同じ論法によるならば、「は」についても「中立叙述」を認めるべきことを示す。

 表1は、主節の主格と述語の間に入る「は」と「が」による有標・無標の交差関係をまとめる。

 この表1も「基底文モデル」の理論に関する表現の一部である。

 なお、この表は、話を簡単にするため、形容詞述語文や動詞述語文などに見られる例外的な場合を除いたものである。