tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

泥をこねる

 その子供はまだ何者でもなかった。ただ無心に、ひとりだけで、生まれて初めて泥をこねた。幼稚園に行く前のことで自由に生きていた。

 外で遊ぶため団地アパート3階の玄関の鉄扉を開け、2月下旬の、昨晩降った雨の後のぬるく暖かい空気に包まれた。空は曇っていた。足早に下まで降りて外へ出た。階段口から敷地の外へつながるコンクリートの舗装以外は剥き出しの土で、舗装の横っちょにできた水たまりが珍しかった。コンクリートの上にしゃがみこんで水たまりに左手を伸ばした。利き手が左なのだ。まだ「粘土」ということばも知らず、それどころか、粘土に触ったこともなかった。触ってみると予想以上に気持ちがよくて、つかんだ泥を手で握って指の間からこぼれさせてはまた握ることを繰り返した。すぐ右手も参加して一度に触る泥の分量が多くなり、ただ粘る土をいじることの気持ちよさに没頭した。こういうものはこねると粘り気が増して固まりやすくなる。そのことは鼻の穴奥を指でいじる習慣から経験的に知っていた。階段下から補助輪付き自転車を出していつものように近所を漕いで回るつもりだったのもとっくに忘れて、いよいよ両手でそこにあるだけの泥をこねた。手で泥を触る快感はいつのまにか薄れたが、入れ替わりにこの作業をやり続けなければならない気もち、ただそれだけになった。泥の呼びかけで心の中に見えない‘かたち‘がうまれ、泥にその’かたち‘を与えなければどうにもならない。世界は自分といま’かたち’をとりつつある’もの’だけになった。

 そうして時間がたった。集中を乱されないように遮断していた周囲の知覚が戻ると、座っている自分の目の前に、正確な円形を備えた厚みのある水気の多いケーキ状の“もの”があった。曇り空の下でそれは透明の膜に包まれてぷるぷる震えていた。胸の内にやり終えた達成感と虚無感が去来し震えていた。

 こんなことをしたのは初めてだった。ひとつの作業に長時間没頭したのも初めてだった。満足と喪失の入りまじった感覚が世界に広がっていた。それは、灰色の「無」や「死」の本体のほんの切れ端に触ったかのような気持ちだった。こんなことをしてはいけなかったのだが、誰にも見られてないから大丈夫だとも考えた。しばらく、無音の世界に浸り、余韻が消え、いつもの自分がその場に戻ってくるのを待った。しばらく待ってからもとに戻ったので立ち上がった。自転車を漕いでいつものように団地内のあちこちを走り回りながら、あの‘もの’を思い出し反芻した。30分ぐらいかけて団地内外をひとまわりして戻るとあの‘もの’はなくなっていた。
 泥をこねたこともすぐ忘れてしまった。