tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

意識と言語の癒合

 さて、このブログを開始して、すでに100を超えるアクセスをいただきました。ありがとうございます。

 できましたら、読みづらい箇所、理解しがたい用語などについて、指摘や質問していただけるとありがたく存じます。

 

 きょうは、ここで、日本語文法の基礎理論を構想し、研究を進めてきた結果得られた、哲学的副産物のひとつ、意識と言語の癒合に関して、簡単に説明してみたいと思います。

 

 われわれが持ちうる個人的主観意識の機能する範囲は、外的環境に関し、行動範囲内の知覚可能な環境、事物、ひとびとに限定されています。時間軸を添えて考えると、生まれてから現在までです。

 その外に関してわれわれが思い描く延長世界の想像の源泉は、すべて間接的な情報です。言語を媒介とする延長世界の情報としては、伝聞情報に限られています。間接的情報に関しては、すべてを信じるわけには行かず、取捨者選択を行い、個人的主観意識を基盤にその範囲内で整合的な情報、文章や談話を材料に、個人的主観意識の限界を超える範囲に関して構成しています。しばしば、信じたい願望に沿った延長世界を選択する弱さをも考慮しなければならない局面ですね。

 

 そもそも、ヒトだけが用いていることばの有用性について、比較認知学という分野で、チンパンジーとヒトのちがいについて観察や実験を重ねている松沢哲郎先生によると、先史時代の言語の有用性は、あそこに獲物がいた、今から捕まえに行こう、あるいは水場があった、飲みに行こう、などという生物固体としての限界を集団的情報共有によって克服することにあったというような説明をしています。それと引き換えに失った能力、余計な悩みもあるわけですが。(「想像する力」)

 

 ところで、歴史時代以降、社会的分業が高度に発達した現代社会では、相当に複雑な多岐にわたる延長世界像を構成し、それを信じて、われわれは生きており、それなしには生きていけない状態に甘んじています。

 例えば、小説や物語のようなものを介して、われわれは、実際に訪れたこともない時空を超えた世界について描写された世界像の詳細についてもそれなりの知識を蓄えております。

 外国文学の母語への翻訳を読んで理解することができること、このことは、母語という言語的共通意識を形成しているか、しつつある人にとって、可能となることですが、一旦、立ち止まって、そういうことが可能になる仕組みは何に由来しているのかを考えてみましょう。

 

 それは、母語という共通言語、その語彙体系と文法規則を同じくする人同士の情報のやり取りが可能なことが基盤となっています。

    テレビも、ラジオも、新聞もないときの最古の情報メディアは、共同体の外を見てきた人の話だったと言えるでしょう。

 こんにちでも、幼児から小児の段階を経て社会人として、社会的分業の一翼を担うに至るまでに、相当の母語のやり取りをいくつかの小集団内で経験して培った、個人的意識を超えた言語的共同主観意識が土台としてあります。

 個人的に見聞きした体験を、それを知らない人に話して伝える場合が日常的にあります。また、反対に、他人から自分が体験していない話を聞いて、理解する場合があります。

 ある出来事や経験談を理解する、人に理解してもらうために、すべての前提を話すことは実際には不可能ですから、共通の前提になっていることは、背景い退けて、暗黙の前提として言及されない当然の文脈として共有されています。(相互の言語表現の意味が伝わらない場合の原因の一つは、このような暗黙の前提の食い違いが横たわっていることが考えられますね。)

 

 このような暗黙の前提及び、無数の談話や文章によって明言された母語による言及され、相互に共有されている延長された世界像を、ここでは、言語的共同主観意識と呼んでいます。

 日常生活世界の経験は、日々の個人的活動により、言語的共同主観意識を部分的には、更新し、改変しています。ただし、通常、安定した大部分はそのまま継続されます。

 ただし、時には、パウロの回心のように、劇的にその世界像の意味や価値の根本が改変されることさえ起こり得ます。

 

 ひとびとは、このような延長した世界像を言語を通じて構築して生活しています。そうでなければ、もっともみじかな家族とさえ、言語によるコミュニケーションが成立しません。

 トイレに入って、紙がないことに気がついて、「おーい、紙とって」と人に頼むことさえ、言語的共通主観意識の共有なしには、成立しません。

 こうしたことの不自由さ、個人的主観意識の言語的共同主観による被拘束性を踏まえて、個体としての生物としてみると、ヒトという生き物は、個人的主観意識にとって本来的になしで済ませられる言語的共同主観意識に相対的に依存しており、この依存性の自覚がない場合、あるいは、日常の実践的場面の効率性という理由により、癒合せざるを得ない、というのが私のここでの結論です。

 (ここでは、個人の純粋主観と言語の関係に焦点をしぼっていますので、動物的な群を構成する個体までは前提していますが、社会という観念は除外して考察しています。)

 

 ここで、私が、「癒合」とした用語は、メルロ ポンティが「行動の構造」で示した、チンパンジーが認知する生活世界の「癒合」(adherence)に由来しています。

    有名なゲシュタルト心理学の「チンパンジーの知恵試験」に依拠して、ヒトがチンパンジーにはできないパースパクティブの転換、外的世界環境の組み替えを想像裡に思い描く能力との対比で提起した概念です。

 メルロ ポンティの場合、チンパンジーの癒合は、自分の身体活動の場として、課題解決にあたり、みずからの身体の移動などは可能であるのに、道具を使って、木の棒で餌を自分のほうに引き寄せることができない、思いつけないことを指していました。

 これを借用して、私は、自覚がない場合、ヒトにも、言語によるパースぺクティブの転換が可能であっても、言語的共同主観意識を相対化できない個人の場合、そこから容易に自由にはなれない、という含意をこめて、ヒトにはヒトにとっての癒合があるという異なる意味で借用しています。

 

    個人的主観意識と言語的共同主観意識の関係を、私は次のように考えています。

   個人的主観意識が基底ですが、群れを構成する動物にもある相互主観的で集団的な生活世界意識を媒介に、言語的な共同主観意識を構成し、個別の主観に嵌入する形で構成され、分け持たれているだろうと想定しています。

    無論、そうは言っても、通常、言葉に影響を受けていない純粋な知覚ベースの個人的主観を自覚することは、きわめて難しいことは認めなければなりません。禅の修行による意識の変成状態や脳の機能障害など、例外的な状態の報告から想像するしかない境地です。

   ところが、日本語の基本的な仕組みに関わる「は」「が」の機能を理解するための補助線として仮定すると上手くいくのです。

   個人的主観と共同主観の 両者は、個人の意識内の二つのモードであり、あるときは相互補完的になり、あるときは、葛藤が生じる場合もあります。

    人とおしゃべりしているときは、言語的な共同主観意識が優勢であり、個人的主観意識は、従属的であり、拘束されてさえいます。単独で行動しているときは、反対に、個人的主観意識が優勢で、非言語的意識も活性化しながら、言語的な共同主観意識は従属的で補助的に活用されたり、参照されたりしているでしょう。

 

 さて、では、こうした認識が、日本語文法の基礎理論とどう関わっているのでしょうか。

 その答えは、交差対立の有標化を説明する理論的枠組みにあります。

 すでに公開した以下の分析は、個人的主観意識と言語的共同主観意識のあいだで文が発信者から受信者に送られる枠組みを通じてみることにより、理解が可能になっています。

「事態(出来事)・直観文」の<「が」→「は」交代>による有標化含意分析
 
 
「定性関係・判断文」の<「は」→「が」交代>による有標化含意分析
 
ここで示した、「は」と「が」の交差対立による有標化による含意の発生機序は、個人的主観意識(私はAがBするのをみた)と、言語的共同主観意識(Aとは〜のことである。Bとは〜のことである)という意識のギャップのあいだを埋める文のやりとりという背景の上においてはじめて説明可能になるのです。