tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

「定性関係・判断文」の<「は」→「が」交代>による有標化含意分析

同様に、この項目も、これまでの主張を論証するための分析の続きである。

 

「定性関係・判断文」の<「は」→「が」交代>による有標化含意分析

 

 「定性関係・判断文」において、「は」と「が」を交代させるとどうなるだろうか。

 

文d これ [∅] みかん

文e これ [は] みかん

文f これ [が] みかん

 主格の名詞と名詞述語の結合関係と「が」「は」の機能の関与を調べる観点から比較する。

 文d「これ ∅ みかん」と文e「これはみかん」とでは、語と語の結合関係に関して、違いは見いだせない。「これ」という語で指示した対象が、「みかん」という種に属することを示している。

 日本語文法研究では、これを単純に「主格」や「主語」と積極的に捉えない立場もある。むしろ、その立場が優勢であるか、もしくは、これを受け入れない立場からも有効な代案が出ていない。

 注:強いて、本書の延長上の可能性を上げるなら、市川浩の「身」の錯綜体概念に合わせた、主格主語以外の「主題」概念の研究が有効かもしれない。(注おわり)

 

 ここでは、形式意味論的な見方により、「これ」の指示対象個体が論理的主語であり、述語「みかん」との包摂・被包摂の論理的関係であることを認め、これを手がかりに、分析を進める。

 なお、「太郎と花子は結婚している」のような文は、形式論理に当てはめるなら、論理的主語は、「太郎」と「花子」の二個体のどちらも主語候補である。形式論理にかなう記号論理の表現を、自然言語に翻訳する場合は、「太郎は花子と結婚している」など主語が一つにもなる。この違いは、意識しておくべきである。

 

<文d「これ ∅ みかん」と文e「これはみかん」の含意>

 文d、文eの形態素の違いにもかかわらず、両者の論理的意味関係に関与する違いは見られない。

 無助詞の文dであれ、「は」のある文eであれ、論理的意味以外の含意はあるが同じである。

 「∅」「は」の論理的意味への含意

 ①「判断」の含意

 ②文脈条件に依存する「対比」(「これ[∅/は]みかん。あれ[∅/は]りんご」)

 ③文脈条件に依存する「談話の主題」表示機能

(この「これは」を「文の主題」とする説に研究者の多くの支持がある。本書の立場では、「はじめに」で示したように、文脈条件なしに「主題」というべき機能があるとは言えない。ここでは、さしあたって「文の主題」の適用を保留する。「これ ∅ みかん」では「は」がなくても文が成立していることを、その理由のひとつとして上げておく。無助詞の「これ」をも「文の主題」とするなら、「これがみかん」の「これが」も主題であると言わなければならなくなるのではないだろうか。「談話の主題」としてなら、「これ ∅」「これは」「これが」すべて、文脈条件次第で「談話の主題」となる可能性がある。)

 ところで、無助詞の文dにおいても、上の文eに認めた①「判断」の含意が認められるのは、自然言語の判断を伴う文使用に伴う不可避的含意であると考えられる。

 そして、②と③の含意は談話文脈に依存している。

 ②の「対比」に関して、談話文脈を構成して含意の違いを記述してみよう。

 「これ ∅ みかん。 あれ ∅ りんご」

 「これはみかん。あれはりんご」

 同じく、③の「談話の主題」に関して。

 「これ ∅ みかん。おいしいよ。食べる?」

 「これはみかん。おいしいよ。食べる?」

 (通常、みかんを目の前にして、「これ∅/はみかん」とは言わない。袋に入ったみかんを指した発言と考えるなど、リアルな状況を補って考えている。)

 これらの例が示すことは、文単独で見ると「は」は、冗長ではあるが、無助詞の文と同じ論理的主語と述語の包摂・被包摂関係に関与し、文脈条件を考慮した含意においても、無助詞の文を変更していないことである。

 したがって、文dと文eは、両方、文fが「が」によって「有標化」されるのであれば、文fに対し相対的に「無標」であると結論できる。

 なお、「判断」について、本書の立場では、この例文の場合、直接知覚対象である個体識別が知覚レベルで先行し、これに「みかん」という一般名詞をラベルとして用いることが妥当であるとして、文を生成し、発話するのが「判断文」であるとする。「判断文」は、語と語の結合の妥当性を肯定する記号に依拠した思考作用に関わっている。

 

<文f「これがみかん」の「が」の含意付与>

 

 それでは、次に文fでの「は」→「が」の交代を考察する。

 まず、文fにおいても、論理的意味関係は、変わらないことを確認する。変わるのは、付与される含意である。

 先行研究では、文eと文fの違いについて、前者を「措定」(predication)「指定」(specification)[西山]または、「後項焦点文」「前項焦点文」[天野]という理論的解釈が与えられている。なお、「焦点」(focus)は「前提」(presupposition)との対概念である。この場合も、論理的意味の変更はない。

 実際に、文fでの<「は」→「が」の交代>を見ると、文脈条件によって、いくつかの含意もしくは機能の付与が考えられる。

 「は」→「が」による含意付与

 ①文の発信者がこの文で表現する内容を体験し、驚き、感動などの含意。

  「これがみかんか!(初めて食べたとき)」

  この含意の発現条件:文の発話者が指示対象を直接知らなかったこと。

            (「みかん」という語は知っていたが、指示対象を知

             らなかった場合と考えられる。前項焦点[天野])

 ②文の発信者がこの文の内容を相手に教えている、教示・ガイドの含意。

   日本語の教室で教師から学生へ「これがみかん。み・か・ん・です」

  この含意の発現条件:文の受信者が知らない内容を発話する。

            ただし、同じ場面で「これはみかん。」も成立するの

            で、義務的ではない。強調効果はある。

*  これと同じタイプのガイド含意の例:観光ガイド「みなさま、こちらが大坂城でございます」を加えておく。

 ③文の発信者から、受信者への賞賛・皮肉などの修辞的含意

  「これがみかん?全然みかんの味がしない」

  この含意の発現条件:受信者が一般的な文の意味からの逸脱があると考えていること。状況が変わると同じ文が賞賛の含意にもなる。

  文の発信者がおいしいカレーを食べて「これがカレー!」(発現条件の枠組みは同じで、含意は、良い・悪い二極に分かれる。)

 

 ①と②は「指定文」であり、「前項焦点」であるという理論的解釈があてはまる。その上で、さらに、文脈上の発信者・受信者の認識過程のどちらかで発話動機を文の受信者に読み取らせる効果が見られる。

 ①と②の違いは、情報ギャップに関わるが、それが誰にとってなのか、発信者にとってなのか、受信者にとってなのかという違いがある。

 ①では直接知覚に基づく情報ギャップが埋まったことに情動が伴う含意である。

 ②では教師の発話する文自体が文の受信者にとって新規であることを標づける「有標化」である。あるいは、②では、教師自身の「判断」について、疑い得ない直観的確信に高まった「判断」としての文の発話であるかもしれない。また、文の内容が相手にとって新規であることと、直観的確信を伴うことは両立しうる。

 ③では、一旦「これはみかん」という文の示す「判断」を受け入れかけて、対象個体の味の直接認知によって妥当性を問う感情を伴う文としての「有標化」が働いている。ここでも、含意の発現条件として、文の発信者の「みかん」の一般的性質に関する確信が伴っている。

 ③の場合、同じく「指定」「前項焦点」が妥当しつつ、さらに修辞的含意が文脈条件から発現していると考えられる。

 要するに、文d「これ ∅ みかん」と文e「これはみかん」に見られる「判断」に加えられる発信者または受信者の情報ギャップに伴う情動的含意、文内容の新規性の自覚または強意、直観的確信、文脈によって生じた「前提」に関わる「指定」などが考えられる。

 いずれにしても、前の二文、無助詞の場合と「は」のある場合と比較して、「が」のある文fは、論理的関係とそれに関する「判断」に加え、それ以上の含意を付け加えていて、その含意が多様であり、含意は文脈条件に依存してどのような含意を付与しているのかを決定している。

 以上の考察に従い、さきほどの表を次のように書き変えよう。

無標

有標

文d これ [∅] みかん

文e これ [は] みかん

文f これ [が] みかん

 以上、交差二項対立という文法現象の分析と理論的解釈の記述を終える。

 

<基底文の2タイプの下位区分による外延的定義>

 

 尾上圭介は、「日本語の主語の定めがたさ」に関し、意味役割が多様に異なっているゆえに、日本語の主語は定め難いとしている。その後、「日本語文法事典」の担当箇所では、①文の形式と内容の一致見ることはできない、②したがって、文の内容、意味役割から事態認識の中核としての主格を「主語」にする考えを提起している。

 この困難について、本書で私が取る立場は、楽観的である。

 かつて、奥田靖男が、三上章を評価しつつも、統語レベルと構文レベルを区別したほうがより良いだろうと問題点を示唆したことがあった。本書の基底文と基本構文の理論は、この示唆を生かすものになっている。

 まず、日本語の主格については、むしろ、尾上が例にあげたような主格成分の意味役割の多様性を概括する主格成分群を、第一の主語候補とみなし、そのまま、「構文上の主語」の一部とすることができるとする立場である。日本語の“主語が文法の理論に認められない”とするのは悲観的に過ぎる。落語の「高津の富」で、手にしたあたり札を、神社の掲示と一致しているのを見ながら、「ああ、やっぱり、当たるわけない」と嘆く登場人物も、よくよく見比べたのちに、最後は当たっていることに気がつくことになった。

 日本語の基本構文については、主格成分の意味役割の多様性を土台として、主格—述語関係がそのまま「構文上の主語」に包摂されているという見方を採用する。母語話者の直感は、主格—述語関係を「構文上の主語—述語」形式図式に依拠しているとみなす。基本構文のレベルでは、対格—述語関係も、この構文図式が「構文上の主語—述語」関係に包摂されている。

 「構文上の主語—述語」図式は、主格—述語関係や対格—述語関係に関する自覚の有無にかかわらず、論理的に有意味な表現を母語話者に可能にしている。これを本書では基本構文とするが、つまり、基本構文の図式は、母語話者にとって、感覚的に実在する見えない文の雛形であり、統語レベルの論理的関係を意味内容内に反映しつつときには潜在化させたうえで、同一の基本構文図式が顕在していると解釈できる。「ときには」というのは、「雨が降っている」や「財布を忘れた」のように、「X+が+動的動詞」の場合は、基本構文図式に統語レベルの論理的意味が顕在化しているとみなすからである。

 そこで残されるのは、むしろ、先行研究が認め難かった「は」にも、無標の定性関係判断文の場合に限り、主格表示に関わる機能の存在することを、認めるだけである。

 定性関係判断文の「は」、「みかんはあまずっぱい」や「みかんはくだものだ」というような、無標レベルの定性関係・判断文の「は」に主格に関与する働きを、これまでの研究者が認めなかった理由は、統語レベルの格関係をときに潜在化させてしまう構文図式の強い印象に影響されてのことではないだろうか。