tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

日本語文の体系的文法記述のための文機能分析方法論③

  • 3 主題—題述構造を主格—述語構造の基底から見ることの妥当性と優位性

 

 この章では、ここまで、もっぱら文法現象事実の分析、理論的解釈について考察してきた。次に、理論の体系性の見地から、基礎理論構想の妥当性、大局的見地の比較優位性があるとすれば、どのような点にあるかについても検討する。そこで、ポレミックな例を取り上げる。

 考察するのは「ファックスもう送りました」のような文の扱いである。基底文の主格—述語構造から、主題—題述構造を位置づけ直す方針の妥当性について論じる。それは、オッカムの剃刀のような役割を果たす。

 本書の基礎理論を形成するための基本方針は、「は」に「連辞」の機能を認め、これを基底レベル機能とし、この土台の上に、別途「は」の「取り立て」ほかの基本構文を構成する高次レベル機能があることを示す。

 これは、理論を形成する初発段階の、観察事実を理論的に解釈するときの方針である。もはやこの初発段階で、拙論は先行研究との分岐している。

 筆者が先行研究と異なる理論を模索する理由は、大局的に、文の事実としての原理から、できるだけ少ない概念と理論でできるだけ多くの日本語の文法現象を説明できる体系的理論を目指すからである。

 直感的動機づけとして、“母語話者の文法直感を下支えするメカニズム”と“形態素複合形式としての現代日本語の文”の対応関係を直接記述する理論的表現を目指している。

 

 助詞「は」を含む文に関し、本書の主張内容と一部の日本語学研究者の間で、議論になりそうな論点のひとつは、次のような文の扱いである。

 

3-1 対格の「を」の上書きとしての「は」

 

1)「ファックスはもう送りました」

2)「ファックス ∅ もう送りました」

3)「ファックスもう送りました」

 

 

  • 1で示したと「は」の「連辞」、§2で示した<文意味充足原則>をこの文に適用すると、1)は、「ファックス私が(あるいは、誰かが)もう送りました」と解釈することになる。

 次に、主格と述語の間に入る「連辞」は、①述語との結合関係を示し、述語との格関係または文を修飾する関係を読み取るよう解釈すべしという表示であるという考えを示した。(第1章1-6-3)

1)をパラフレーズすると、

 

2)「ファックス ∅ もう送りました」が得られる。

 

 2)は、文脈状況がどのようなものであっても、運用上、有意味な文であれば、「ファックス」と「もう送りました」の関係は、対格と述語の関係であり、主格が省略された文であると解釈されることは衆目の一致することであろう。

 したがって「対格」を表示する「を」を加えても、文の意味・機能は変わらない。

 

 3)「ファックスもう送りました」は、「を」なしの2)と比べて冗長ではあるが、命題内容に関する新たな意味機能の付与はない。「を」によって、対格—述語関係が明示されているという違いしか認められない。

 

 このパラフレーズした文に「は」が入ったものが、1)である。

 そうすると、少なくとも、2)または3)にある命題内容が1)に保存されていることと、「は」によって生じた新たな機能が認められる。この「連辞」だけで説明し尽くせない高次機能は、先行研究では「文の主題、(または題目)」あるいは「取り立て」と言われてきた機能である。

 本書の基礎理論では、「談話の主題」を認め、「文の主題」一般を否定し、条件付きで「文の主題」を認める。文中の語句を「取り立て」て、焦点化する機能について、その機能のみを単一の機能素として、一旦、分離する見方を採用している。その上で、「連辞」と「取り立て」のふたつの機能素が一文中の「は」に重複して担われることを認める。また、どちらか一方のみが機能する場合もある。

 このような分析から、先に「は」にも認めた「連辞」機能とは異なる機能、「取り立て」による「焦点化」を「は」が備えていることの日本語という自然言語システムの機能構造内での位置付けを明確にできる。

 つまり、「は」には、単に対格を示す「を」の顕在を潜在化させ、「は」によって、対格「ファックス」を「取り立て」る機能が働いている。なんらかの標付け、記号論的・言語学的には、基底文を「有標化」している。

 「ファックス ∅ もう送りました」「ファックスもう送りました」は、どちらも基底レベルの文である。「ファックス」の「は」による有標化が付加された「ファックスもう送りました」は、日本語という言語システムの基底文に上書きされる、付加的な機能であるから、基底機能より、高次の機能である。

 注)人間の使用する記号はすべて自然界や社会現象の「有標化」作用であるが、ここでは、相対的に無標レベルにある文の成分をさらに標づけるという意味での「有標化」である。(注、終わり)

 この「取り立て」による有標化の理由は、何だろうか。

無標レベルとの比較、また、文の受信者と発信者に関わる原理的な不変条件、状況文脈(=原文脈)や談話文脈などの変化する条件を加味して考察すべきである。

 この先のわたしの見解は、本論の「基底文モデル」と<「は」と「が」の交差対立理論>の前提を踏まえて論じる。

 

3-2 処置課題の「は」の検討

 

 堀川(2012「日本語の「主題」」)は、1)と同型の文について「は」の処置課題用法として分析している。

 

18)「太鼓左手で叩いた」

 

 この「は」の機能の解釈として、「は」の主題提示機能のひとつとして、<処置課題>を示す機能として把握している。これは、「は」の主題提示機能の典型を形容詞述語文の「は」に見られる「主題—説明」関係を細分化するひとつとして提示された概念である。しかし、このような「は」の機能の把握の仕方は、本書の立場からすると、受け入れ難い。

 第一に、「は」の「主題提示機能」による、「主題—説明」構造を、文構造の本質的に唯一の枠組みとしている点で受け入れ難い。

 第二に、この例文の「は」の<処置課題>は、対格—述語関係が、「は」に起因するという立論になっている。

 「は」は、「は」が入る前から成立している対格—述語関係の一部を「取り立て」たのであって、この取り立て方を、対格—述語関係から、(あるいはほかのX格—述語関係から)説明することは、発信された文に触れた母語話者の文意味直感の記述ではあるが、形態素の複合的意味機能の発生機序の理論的説明ではない。

 第三に、「太鼓を左手で叩いた」と「太鼓は左手で叩いた」の違いを説明できない。

 

 反証を示す。

 「太鼓 ∅ 左手で叩いた」

 「太鼓を左手で叩いた」

 「太鼓は左手で叩いた」

 「を」「は」がなくても、対格「太鼓」と述語「叩いた」の関係は明らかである。「は」によって、処置課題が生じたとする理由がない。

 繰り返すが、「は」の<処置課題>説は、文を構成する発信者が文の命題部分を構成する過程を考慮していない。

 

 ある文のある項(「太鼓は」)が<処置課題>として母語話者に直感されるような形態素複合による効果は、統語レベルの格関係に由来している。「太鼓を左手で叩いた」と表現しても、「太鼓∅左手で叩いた」と表現しても、「太鼓」が対格である限り<処置課題>として認識される。<処置課題>と「は」を関連付ける説明は、すでにある概念で説明できることを、余計な概念を増やしてまで説明すべきではないというオッカムの原理に違背している。

 「は」と<処置課題>が結びついているとする説明が余計である理由は、「は」がない場合であっても、無助詞の場合の文の「題目」を表示することができるという、「は」なしの文も備えている「命題内容」(格と述語の関係)とその「情報構造」(題目=トピックと題目に関するコメント)だけで説明できるからである。そして、「太鼓」という項を「は」によって「取り立て」た理由は、別にあるかもしれず、状況や文脈によって、様々であることを考慮していない。

 「太鼓は」ではなく「太鼓を」が付いた場合でも、その項が「題目」として文の受信者に把握され得ると述べた。このことは、基底機能である命題構成機能が成立すると同時に、並行して伝達上の「題目—コメント」構造が備わることが必然的であるからに他ならない。

 もし、このことが研究者に長年意識されなかったとしたら、それは、“「は」だけに特権的に「題目」表示機能が備わるという先入観”のせいであり、端的に専門家の間に定着した概念あるいは理論による誤った臆見であることを指摘しなければならないだろう。

 日本語の文法研究においても、一般的な科学的研究においてと同様に、日本語文のある文法現象の事実を記述し、個々の法則性を理論的に記述しようとするときに、できるだけ少ない有限個の基本的概念で多数の文法現象を記述することが望ましい。

 

3-3 「は」と「主題」を結びつけることの問題点と解決

 

 形容詞述語や名詞述語の「は」を「主題」とすることも同様である。

 「我輩は猫である。名前はまだない」の「我輩」「名前」のひとつひとつを「主題」という用語によって把握し、過剰に一般的な「主題」概念によって解釈するのは、文の命題構成機能、文と現実との関係、文と発話者との関係を度外視した上で成立するような、一般化が過剰な立論である。

 特定の「は」に<処置課題>を見るのは、過剰な一般化の例であることを見てきた。助詞「は」ひとつに、文を構成するほかの要素と「は」との合成に由来する機能まで背負わせてしまっていることが問題である。

 このような理論的問題が生じてしまった理由のひとつは、「は」の機能の解釈の根拠に文の受信者の直感のみを採用しているからであるだろう。文の受信者が文を解釈する観点にとどまって理論的枠組みをつくる限りでは、「は」に関わる「主題」という用語で「は」の機能を解釈できる。確かに一定の部分的な説明力が認められる。また、母語話者が備える文の高次機能とそれに由来する構文図式についての直感の部分的な説明としてならば、誤りであるとは言えない。

 しかし、その高次の機能を可能にしている前提となり、文構造をつくる土台である基底レベルで、「は」があってもなくてもすでに果たしている機能が考慮されていない。基底から見て高次の機能である「文の主題」=「は」という覆い、つまり、いわゆる“理念の衣”によって研究者の関心が及ばなかった基底レベルの文法現象を救い出すことが先決である。

 本書の立場では、「は」の諸機能を、機能が作用する文の層を次の三層に分ける。

  • 文内の語と語の結合に関わる機能、または、文中の語句のみに関わる機能

=「取り立て」=潜在する焦点可能成分の「は」による焦点化

  • 文としての単位全体に関わる機能。

=「「は」と「が」の交差二項対立の有標化」

注:日本語には、これ以外にも、文全体を有標化する形態素が存在する。

  終助詞の「よ」「ね」。文末の「のだ」などがある。(第4章§2-1)

  • その文がおかれる文外の環境条件(談話文脈や話し手の状況)と関わる機能

=「焦点化」一般(文脈との合成により決定される焦点)

 「主題」については談話・文章を構成する複数の文の複数の「題目」の中の中心となる語句、または、そのそれに関する意見や説明とする。

 

こうして、ひとつの助詞である「は」が文中で同時に担う複数機能の働きどころ(作用域・作用階梯)をそれぞれ分ける。単一の機能素を分離し、ほかの語との連携からなる、文という形態素複合が母語話者にもたらす意味直感を、具体的な形態素レベルから出発して記述できるようにする。

 こうして、「は」の「主題提示機能」と言われてきた機能を見ると、③の文外の環境条件、談話・状況のレベルに限られることがわかる。

 「文の題目」を条件付きで認めることができるのは、そのように考えた上で、たった一つの文が単独で談話単位として独立している場合だけである。つまり、「文の主題」と認められるのは、そのまま「談話の主題」である場合に限る。

 では、「文の題目」は、どう定義すれば体系的整合性を保てるだろうか。

 形態素が顕在化して「題目」を示す場合:「ファックスは送りました」

                    (「は」によるとりたて)

                    「これがエッフェル塔です」(指定)

 題目が形態素以外の要件で決まる場合、非顕在の場合:「新聞を持ってきてくれ」(命令文)

 ちなみに、「題目」が文脈によって変動する文単位では決められない場合もある。「わたしは映画を見た」

 

 一文が備えうる三層(三階梯)の区別に合わせ、談話単位内では「談話の主題」を、ひとつの談話内の中心トピックとする。文単位では「文の題目」だけを認める。また、「文の主題」を原則的に認めず、文単独で談話を構成している場合に限り、「文の題目」が即「談話の主題のトピック」でもあることを認める。

 最後に、母語話者の文意味直感という観点からすると、

「太鼓左手で叩いた」

「太鼓左手で叩いた」

 このふたつの文を比較して、後者の「は」の入っている「太鼓左手で叩いた」の方は、「対格+を+述語」を「対格+は+述語」によって有標化する「構文図式」を当てはめた文とみなす。

 「は」によって取り立てる意味・意図は、広義の文脈との関係でしか決定できない。それにも関わらず、広義の文脈条件を考慮しない立論は、文脈に由来する構文制約や構文選択条件に関する理論としては不十分である。

 この見方は、「は」による「題目の取り立て」が、取り立てのない「太鼓を左手で叩いた」という文と比較しても、どちらもよく使われて、少なくとも命題内容が同等の文として認知され、使用されうるという観察に基づくものである。

 ただし、このような構文図式直観は、文化社会的な規制力といった準言語外部的なものではなく、「文の題目」をそれとして明示する実用的有用性に富む機能である。この構文図式は、基底レベルの無標文にも、高次機能を付与したレベルの文にも認められるものとして、本書では「基本構文」の議論を進める。

 

 ここまでで「省略」と「助詞の分析」に関する実際の手続きと、それが以下の章で展開する基礎理論の原理にどのように貢献するかについて説明した。

 <文意味充足原則>は、一文単独で談話として自立している文であれ、談話や文章の中での状況や文脈への依存性のある文であれ、一様な形式的扱いを可能にする。

 日本語は、命題内容を構成する格成分が必須であっても、可能な限り省略されるという現象が実際に観察され、形式融通性を示す言語である。これを理論的に研究するにあたり、文の機能的形式を把握する大前提として、この章で具体例を示した日本語文に関する観察事実の分析を理論的に取り扱う方法は、決しておろそかにできない重要な手続きである。

 また、こうした、あくまで単一の形態素を起点とし、複合的な機能的形式を把握する手続きを踏まえることは、最も基底レベルの基礎的機能から、より高次な機能へと段階を踏んでもろももろの複合的機能を腑分けすることに役に立つ。「基底文モデル」を理論形成の起点におくことで、このモデルは、先行研究に対しオッカムの剃刀としても働く。

 次の章から本題に入る論点は、「は」と「が」の交差対立現象、統語機能、構文制約条件、文脈の相互関連である。その上、文の発信者・受信者の認知と情報のやりとりも、無視できない役割を演じている。「ひと」も日本語の文にとって広義の文脈に当たるのである。

 そのような日本語の文脈依存性を扱うために、広義の文脈として、文には、必ず話し手と聞き手という“原文脈”が陰に陽に横たわり、構文制約、構文選択に関わっていることを踏まえる。談話文脈は、その上に展開し、“原文脈”相対的独立性をもつ場合を認める。

 これら相互の関連はいかにも錯綜しているが、あくまで形態素複合としての文機能分析を起点とし、基底レベルと直上の高次機能に分け、整理すると理解可能である。

 いまひとつ、本書の重要な観点を以下の章の準備として注意を促しておきたい。

 三尾の「現象文」「判断文」の区別が示す、会話で未知の題目に言及する際に、たとえば、「昨日、友達遊びに来てね。云々」のとき、「が」を「は」に変えることができない構文制約条件があること、この文法現象事実を理論的体系にいかに組み込むのか、という課題がある。

 この答えは、意外に受け止められるかもしれないが、いわゆる記号接地問題を、問題設定そのものを反転することから可能である。(第4章 知覚中心の一般言語理論の可能性、参照)

 日本語に限らず、自然言語を使用して、わたしたち「ヒト」は、いまここには存在しない、「もの」「ひと」「こと」といった対象について、情報のやりとりをすることが可能である。このような自然言語と現実世界をどのように対応づけているか、これが記号接地問題である。

 一方「時所的制約」(三尾)のある「現象文」に「が」を取るという構文制約とは、現場現認文脈と文の癒合という文法現象であるということができる。

 このことと現場文脈を離れた言語運用の両方を説明できる理論が要請されている。これが、三尾による文の区別が示した課題の本質である。

 日本語の運用者の意味直感とその概念化だけでこの課題に答えることは、困難である。この意味直感を保持したまま、いわば「日本語の外の視点から、日本語と日本語外の現実との関連を見る」方法を合わせて導入しなければならない。