tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

「は」と「が」の交差対立理論の概要⑦ 有標化による含意効果分析と先行研究:久野暲「が」の中立叙述、尾上圭介「は」の二分結合説の再解釈

 

 交差対立の有標・無標を、先行研究との一致と相違によって対比して説明する。

 久野の「雨が降っている」を「中立叙述」とする理論的解釈がある。これは、AとBの対比のみに由来する。つまり、久野は、B「これがみかんだ」には、A「雨が降っている」にない「総記」の含意が「が」によって生じているとしている。

 表1の観点によるならば、久野は、「が」の命題構成機能のみに関わる側面を「中立」と把握し、「が」がそれ以上のある特定の含意を担う側面を「総記」としたのだと解釈できる。なお、交差対立の立場からは、「総記」以外の含意があるのだが、すぐ後で説明する。

 本書は、表の通り、ABCDの相互関係構造において文の基底的機能を調べたうえで理論的解釈をほどこす。

 久野の「が」に関する「中立叙述」という解釈を、本書の立場では、文全体を有標化せず、無標としていると解釈する。命題内容と認識様態の組み合わせが事態・直観であって、文全体が有標化していない文であるとみなすことに対応している。

 そこで、「は」についても、久野の提唱した「中立叙述」を認めるならば、「は」についても、「が」の中立叙述に対応する機能があると考えても良いだろう。

 Dの「これみかんだ」がそれに相当する。

 この例文Dは、命題内容と認識様態が定性関係・判断であって、文全体が有標化していない場合である。

 ここまでで言えることは、Dの「これはみかんだ」の「は」には、Cの「は」に認められる「確言」というべき含意付与と比較して、なんら新たな含意付与を持たない「中立性」が認められる。

 しつこいようだが、「これは」の「は」に主題性があるかどうかは、ひとつの文だけを見ても決定できない。本書の主張は、「は」に「主題」との関連がないというものではなく、談話レベルで見て初めて、「は」が主題に関与している場合、そうでない場合が、内容だけから決められるという主張である。

 

 以下に、簡易な形で「は」と「が」の交差二項対立の関係構造を示す表2を示す。

 表2の下段は、ふたつの文のタイプのそれぞれの無標レベルの文であり、基底文である。この下段は、久野の「が」の中立叙述という見方を、「は」にも適用すべき場合があること、中立性の成立・非成立が交差対立現象の有標・無標によることを示している。

 

 表2ー1:「は」と「が」の二項対立の二重性を示す図(A)

 

「は」:事態(出来事)・判断文(有標)     

    「雨は降ってるよ」           

    ↑                       

「が」:事態(出来事)・直観文(無標)     

   「雨が降ってるよ」            

 

 表2ー2:「は」と「が」の二項対立の二重性を示す図(B)

 「が」:定性関係・直観文(有標)                

     「これがみかんだ」

  ↑                        ↑

 「は」:定性関係・判断文(無標)

    「これはみかんだ」

 

<「は」の二分結合説の修正点>

 尾上の「は」の「二分結合」という把握の仕方は、卓見である。

 だが、ひとつの例外を認めなければならない。それは「は」が無標の「定性関係・判断文」、「これはみかんだ」の「は」である。

 この場合は、「二分」せずに「結合」だけの機能を担う。なぜなら、「これ」と「みかん」の語は、前述定段階ではもとの語同士が分離しているからである。

この場合、「は」の中立叙述が成立している。

 「は」が文の主格—述語関係を分断するのは、「は」が入る前に「が」「を」「に」「で」がある場合に限る。

 そして、「は」が「事態(出来事)・直観文」を有標化する「取り立て」の場合、尾上のいう「断」の作用、「二分」して、再度「結合」するものだとみなすことができる。

 交差対立という見方は、久野と尾上のそれぞれが与えた概念と理論的解釈について、一定の構造的特質をそなえた日本語現象群の総体にかんする異なる側面からの部分的アプローチであり、より包括的見地から適切な位置付けを見出すことができる説である。

 本書が提起する基礎理論全体は、このようにここで掲げた以外の先行研究の理論や概念にも包括的把握を与える枠組みである。

 さて、「は」と「が」の機能の分析に戻り、この二重の二項対立が、交差関係であることは、無標・有標の「が」が、どちらの場合でも、形態素としてある機能の同一性を備えていることの確認が必要である。無標・有標の「は」についても、同様である。

 その同一性は、「は」であれ、「が」であれ、文を無標のままで提示しようと、有標化していようと、「は」には「判断」、「が」には「直観」という言表する命題内容に関する認識容態のちがいであるだろう。

 

<「は」の二分結合説の修正点>

 尾上の「は」の「二分結合」という把握の仕方は、卓見である。

 だが、ひとつの例外を認めなければならない。それは「は」が無標の「定性関係・判断文」、「これはみかんだ」の「は」である。

 この場合は、「二分」せずに「結合」だけの機能を担う。なぜなら、「これ」と「みかん」の語は、前述定段階ではもとの語同士が分離しているからである。

この場合、「は」の中立叙述が成立している。

 「は」が文の主格—述語関係を分断するのは、「は」が入る前に「が」「を」「に」「で」がある場合に限る。

 そして、「は」が「事態(出来事)・直観文」を有標化する「取り立て」の場合、尾上のいう「断」の作用、「二分」して、再度「結合」するものだとみなすことができる。

 交差対立という見方は、久野と尾上のそれぞれが与えた概念と理論的解釈について、一定の構造的特質をそなえた日本語現象群の総体にかんする異なる側面からの部分的アプローチであり、より包括的見地から適切な位置付けを見出すことができる説である。

 本書が提起する基礎理論全体は、このようにここで掲げた以外の先行研究の理論や概念にも包括的把握を与える枠組みである。

 さて、「は」と「が」の機能の分析に戻り、この二重の二項対立が、交差関係であることは、無標・有標の「が」が、どちらの場合でも、形態素としてある機能の同一性を備えていることの確認が必要である。無標・有標の「は」についても、同様である。

 その同一性は、「は」であれ、「が」であれ、文を無標のままで提示しようと、有標化していようと、「は」には「判断」、「が」には「直観」という言表する命題内容に関する認識容態のちがいであるだろう。