tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

「基底文モデル」の厳密な記述

 

「基底文モデル」の厳密な記述:基底命題の意味タイプによる、定性関係・事態性に基づくより詳細な「基底文」類型

 

 「基底文の2形式」の区別は、構成要素となる各形態素の機能の分析と並んで、言語学的議論の補強のために認識論と形式論理学の両面から見て決定する。

 本書の日本語の文の二元論の理論的アプローチのヒントは、文の類型論に関わる日本語学の先行研究としての、工藤真由美(『現代日本語のムード・テンス・アスペクト理論』(2014)ほか)の方言のエビデンシャリティー理論である。工藤が文の区別に採用している尺度は、ひとつだけである。それは、時間的制約の有無という形態レベルの文への反映のみによる。(三尾砂、大槻邦敏と同じ論拠である。)

 工藤は、時間制約の有無による一元的尺度に依拠して、名詞述語文・形容詞述語文を時間的制約のない文、相対的に恒常的な性質や状態を表すとする。

 本書の経験主義的言語観に基づく立場によっても、この尺度の適用に異論はない。だが、さらに、名詞述語文・形容詞述語文を典型とする本書の定性関係文のような文の類型に、認識内容の「関係」、認識様態としての「判断」による積極的定義を与えることにより、より本質的で包括的な根拠を与えたい。

 本書の立場は、認識様態の「判断」もしくは「直観」の違いが、文形式に反映することを認める。この点で、工藤のムード・テンス・アスペクト論と本書の立論の相違点がある。具体的には、工藤が「雪は白い」と「雪は白かった」(発見含意を伴う場合)の意味解釈の認識論的側面を例外的とする。本書では、基礎理論の水準で、どちらのタイプの文にも認識様態の違いを含めるべきだという立場を取っており、事実、ここまでもそのように論述してきた。

 本書の基礎理論は、標準日本語(共通語)にも、工藤が方言に限定している<エビデンシャリティ>を認めるものである。

 

<「基底文の2タイプ」事態文と定性関係文>

 以下のすべての文は<「は」と「が」の交差対立>の観点から見ると、無標の文である。

 以下表3は、述語の品詞別の区別に、定性関係の述語となるか、事態の述語となるかによって示した。最終的には、「基底文モデル」が示す文の類型は、命題全体の下位分類に至る。

 

表3:「基底文の2タイプ;述語の品詞別+下位区分付き」

 #は、事態文または定性関係文としての典型的な性質がある述語

 

タイプ1:事態・直観文

1 主格(主語) + ∅/が + ⅰ)#動的動詞述語

                 ⅱ) 認知動詞述語文

                 ⅲ) 状態描写文内の形容詞述語

 

タイプ2:定性関係・判断文 

2 主格(主語) + ∅/は + ⅰ)#名詞述語

                 ⅱ)#対象の性質をあらわす形容詞述語

                               ⅲ) 性質を表す静的動詞述語

                   (テイル付き)

 

タイプ1事態文の例

ⅰ)「みかんがおっこちた」「今、電話をかけている」(動的動詞述語)

ⅱ)「星が見える」(認知動詞述語文)

ⅲ)「頭が痛い」「風が涼しい」(一時的状態描写文の形容詞述語)

 

タイプ2定性関係文の例

ⅰ)「これはみかんだ」「みかんはくだものだ」(名詞述語)

ⅱ)「みかんはあまい」「空は青い」「地球は青かった

  (対象の(相対的に恒常的な)性質をあらわす形容詞述語)

ⅲ)「このみかんはくさっている」(状態や性質を表す動詞述語(テイル付き))

 

  • 形容詞述語文について、たとえば「空が青い」「空は青い」は、どちらもそれぞれに無標であり、基底文である。とするか、それとも、原則を守り、命題内容の「定性関係」から「空は青い」だけを基底文、「空が青い」は、有標化しているとするか、迷うところである。
  • 仁田義雄『日本語のモダリティと人称』(1991)では、「主格+が+形容詞述語」のタイプの文を「現象描写文」とし、三尾砂の「現象文」との類縁性を示している。

 基底文と交差対立のこれまでの理論を支持する場合でも、ここで意見が分かれるかもしれない。これは述語付ける対象(「空」)が自然界において偏在するもので、述語が形容詞という対象の変化しうる性質にも、恒常的な性質にも、どちらにも関わるためであるだろう。

「空青い」は、理論的には、「認識内容」である定性関係を事態として捉えた描写的叙述としても、良さそうである。また、恒常的性質の一時的現認含意(出来事性を帯びる)としても良さそうである。基礎理論の整合性を重視して、「空青い」は、「空青い」の有標化した文としておく。

 このような迷いの元は、「空が青い」「頭が痛い」は、述語が「定性関係」に使用されるものの、その状態は流動的に変化するアスペクト性を持ち、出来事性ももつからだろう。

 日常生活では、ひとがひとに「空青い(よ)」などということは考えにくい。こうした日常的感覚をここでは脇に置いて、文の基底レベルで形式的に考えている。「空青い(よ)」は、「空」に関する定性関係・判断文であり、なんらかの特定の場面状況を補わないと現実的とは言えないことは認めておかなければならないだろう。

「空青い」は、現認を出来事としている「星見える」の知覚文を「事態文」の下位区分に入れたのと条件が近似している。

「頭痛い」は、むしろ、「私痛い」の「XはYが形容詞(=定性述語)」とする。<意味充足原則>の適用である。(基本構文の章を参照)

 今のところ、基礎理論の限界内では、上のような分類が整合的である。本書では、原則を守る姿勢を一貫させる方針を極力守っている。

 本書以降、研究が進むと、この分類は見直しが必要となる可能性がある。その場合、本書の段階での原則は、形態素の形式的側面を起点とする分析方針であるが、修正案は、より根底的な前述定レベルの認知的契機を厳密に体系化し、その土台のうえに日本語の理論の洗練に向かう方針をとることが健全であるだろう。

 

形態素の複合としての形式という点では、1の事態文も、2の定性関係文も、

 主格 +助詞は/が + 述語

 という枠組みに収まっている。