tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

「は」と「が」の交差対立理論の概要④ (承前)事態と定性関係の二元論/認識様態の区別、「直観」と「判断」について

事態と定性関係の二元論

 

 基底文がそなえる命題内容の意味パタンが、「事態」と「定性関係」のわずかふたつのプロトタイプに分けられるとする理由は、第一に、日本語がそうなっているからに相違ない。

 「は」と「が」の使い分けの包括理論を求めて、この結論に至ったときは、個人的にも、これでいいのだろうかと首をひねった。その後、これを日本語の現実の姿と認め、その事実をより広い観点からどう考えれば良いのか考察することにした次第である。

 わずかふたつのパタン、「事態」と「定性関係」という認識内容パタンの区別が言表形式、文の基本的な仕組みの根底において関係していることを、人々は、通常の日常的な語の運用では意識していない。また、多くの場合、意識しないほうが、健全で効果的な文の生成・発信・受信を円滑に営むことができる。文に関する反省意識が作動するのは、言語表現と実態や意味の間にずれが生じたときである。

 文法の母語話者の直感を、理論的表現へと引きあげるのが本来の目的である。そのことの意義は、理論の実践への貢献の観点からすると、理論が情報の圧縮であり、かつ、モデルを構成することであるからと説明したい。日本語の運用に際し、表現や解釈に困るときに、このようなことを知っていれば、直感による場当たり的で間に合わせの解決より、確信の伴う正確な解決に寄与できるのではないだろうか。

 以上が、「事態(出来事)」と「定性関係」という本書の概念と用語法の説明である。

 

認識様態の区別、「直観」と「判断」について

 すでに「直観」「判断」という用語を説明抜きに使用してきたが、ここで、本書の「直観」「判断」というふたつの認識様態の区別を理論的概念として、正式に規定し、説明を加える。

 

 命題内容の区別は、「事態」と「定性関係」に関する認識様態は、「直観」と「判断」のふたつに分かれ<る。

 

<「事態」の「直観」と「判断」>

 ある対象に関する「事態」(出来事性を指標とする)について述べる文をその命題内容だけによって区別して「事態文」と命名するならば、「事態文」は、

 ①感覚知覚に基づいて対象に関する認知内容を「直観」したことを述べる場合と、

 ②ある事態について改めて考えなおし、妥当であると「判断」したことを述べる場合がある。再認として述べる場合である。

 ①の例「雨降っている」 ②の例「雨降っているよ」

 ①の「雨が降っている」には、直観という認識様態を表示する「が」が用いられる。現場での現認が伴う場合には「が」をとるという、構文制約条件にさえなっていることを考察する。(2章 1-1-6参照)

 目で見て、「雨」と「降っている」は決して分離しては知覚像に与えられることはない。「雨だ!」も「降っている!」も言葉として一語文を発する可能性があるが、どちらの一語文を発しても同じことに対応している。

 「雨が降っている」という事態は、主格が表す認知対象としての「もの」の特定とその変化、「降っている」という動詞述語で表される内容も、全体が一斉に(whole at once)意識に与えられる。この「前述定」段階で、すでに、主格「雨」と「降っている」の関係は、自明である。これが「判断」と異なる点である。異なるのは、認識様態である。

 そこで、前述定段階の自明性との対比によって、「判断」は、述定段階での主格「雨」と述語「降っている」の結合の妥当性判断という認識様態に対応している、と言える。これは、まさに尾上圭介の「は」の「二分結合」による「断」と「結合」に対応している。

 ただし、本書で無標レベルとする定性関係・判断文、「これはみかんだ」「りんごはくだものだ」についてとなると、「断」はない。文の運用からみると、主格の「これ」「りんご」に関係づけられた述語、「みかんだ」「くだものだ」は、多くのほかの述語候補同様に並存している中から、話し手の関連付けや文脈に応じて選ばれ、結合したものである。「は」は、主格と述語の結合を示す「連辞」の機能のみを担う。「は」が入ることにより「断」が生じる場合は、「は」がなくても結合関係がほかの格助詞などによって一定の結合関係(主格がー述語、対格をー述語、場所に+述語など)に入り、上書きする場合だけである。

 このように「断」のある文は、文を有標化する場合のみであるとすることが妥当であるだろう。

 

<「定性関係」の「直観」と「判断」>

 ある対象に関する「定性関係」について述べる文をその命題内容だけによって区別して「定性関係文」と命名した。

 ①語と語の連結関係によってその関係判断が妥当であるという「判断」を述べる場合と、

 ②そういった「判断」を成立させた後、事後的にその命題内容が自明であるという直観が生じ、二語を結合した全体を「直観」的に把握していることを述べる場合とがある。

 ①の例「これみかんだ」 ②の例「これみかんだ」

 

 「は」は、認識様態との関係では「判断」と関わり、「が」は「直観」と関わる。「は」と「が」は、この命題内容とその認識様態の関わる機能的構造に入り込んで、基底文の構成機能、および、より高次の含意付与機能を担う。

 

<「直観」と「判断」という概念と用語法について>

 

 では、ここで「直観」と「判断」という認識様態の区別の用語法と概念規定について、説明を加えておく。

 

<「直観」の完結性>

 「直観」は一般に、素朴なものから高度な洞察まで様々である。本書では、日本語文の運用に関わる限りでの「直観」と称する意識作用は、対象の瞬時の特定に限定する。詳しく言うと、直観=対象の特定は、“前述定段階の感覚知覚に由来する、自明性を伴う対象認識の完結”に限定する。

 直観、すなわち、瞬時の対象の特定の指標を、自明性と完結性とするというのは、感覚知覚による視覚表象だけでは、「もの」全体の認識に至る過程の途上の「もの」の一側面=部分的アスペクトしかもたらされないからである。直観は、このような知覚表象と特定の「もの」(みかん、自分の自転車、家etc.)の存在認知と特定が瞬時に結びついていることを指している。特定の「ひと」「場所(ところ)」「とき」についても直観が働く。

 たとえば、視覚に限らず、台所から漂う匂いから、瞬時に“晩御飯はカレーだ”と対象の存在の認知と特定ができることも直観の働きである。

 また、事態の認識は、「出来事」にも「もの」の認識のような直観の完結性が伴う。その証拠が、言語の研究者に周知である、動詞述語の形態論で出てくるアスペクト形態である。言語のアスペクト形態は、このような認識レベルで完結すべき出来事の感覚—知覚—認識のアスペクト性に直説対応している。

 「もうすぐ雨が降るだろう」→「雨が降り出した」→「雨が降っている」→「さっきまで雨が降っていた」→「さっき雨が降った

「定性関係」の「判断」による認識は、「事態」認識と、本来的に異なる認識と見る。後者は、過去に特定された個体や類と他の特定された何かとの関係づけである。それには、語と語の結合妥当性に依存する側面がついてまわり、非言語的・前述定的とは言えない。