tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

「は」と「が」の交差対立理論の概要③ 「事態」と「定性関係」の認識様態の相違点:ボトムアアップ対トップダウン

<「定性関係文」の図式→文トップダウン過程の優位性:「事態文」との比較>

 定性関係に関する日常言語の認識様態は、判断と直観の二つがある。

 定性関係の認識が直観による場合は、前述定的な一時的認識である感覚知覚による直観を土台にする。また、定性関係について判断する場合は、語句の概念的意味に依存した論理図式や関係図式に依存する。

 前者の感覚に基づく直観の例は「この部屋暑い」、後者の概念的意味に依拠する例は「みかんくだものだ」である。

 だが、直観を伴う場合でも、定性関係判断の論理的妥当性が、主格になる語と述語の結合パタン図式に依存していることが前提である。

 ここで、文の構成に対し、前述定過程が「事態」の認知と「定性関係」の認知とでは、ボトムアップとトプダウンの違いがあることに注目したい。

 「事態文」の構成は、受動的であり、現認→文へのボトムアップ過程である。「定性関係文」の構成は、たとえ「この部屋は暑い」のように 現認→文へのボトムアップ過程に起因するとしても、図式→文へのトップダウン過程が伴って最終的に成立することに注意したい。(「事態文」では、この最後の過程が不要である。)

 この“トップダウン過程の図式適合性”が、「定性関係文」の論理的真理を雛形とする“語と語の結合妥当性”を支えているのではないだろうか。

 「事態文」では、主格になる語につく述語の可能性は、事態全体が指し示し、語と語の結合に関して、選択の余地はない。話者は、それについて、言及するかしないかの決定権を留保するだけである。たとえば、現場を共有する話し相手に対し、注意喚起するために発話するだろう。(「が」を用いる「現象文」の「注意喚起」用法については、*****参照)

 なお、「定性関係文」の語と語の結合妥当性を、いわば上から保証する結合妥当性を示す図式は、数が限られている。これに比べると、「事態文」を構成する場合の図式は、比較を絶するほど数が多い。このほんの一部は、助詞の機能を確定する「抽象モデル」第1章参照(例:「主格(もの・ひと・ことetc.)+場所+で+動的動詞」のようなもの)である。

 これに対して、「定性関係文」では、すでに三尾が指摘していたように、主格語に関係づけ可能な多くの妥当な述語の候補のうちから、話し相手と共有する談話文脈などに配慮して、特定の一つの述語を付けた文を選択し、発話に至るものであるだろう。