はじめに⑧ ⑼<題目—題述構造を、主題—題述構造としたうえで、文の本質とすることの問題点>
⑼<題目—題述構造を、主題—題述構造としたうえで、文の本質とすることの問題点>
題目—題述構造は、「は」の有無に関わらず、どのような文にも見てとれるものである。「は」の入る文にしか「題目」が認められない場合は、三上説が形成した偏見によって、現実の文現象観察が影響を受けた結果である。
基礎理論の主張は、広義の文脈との合成によって、どの部分が題目であるのかが決定するものである。文単位で広義の文脈との関係によって認められる「題目」のうち、果たして、どの特定の文の「題目」が「主題」に関連付けられているかは、内容から決めるほかはない。
「主語」は、基礎理論ではどうなるか。
主格がそのまま構文上の「主語」にもなる一方、それが自明な場合は省略してしまう運用上の経済が機能し、主格の代理を務めるほかの要素が「構文上の主語」となり、文脈を構成するのが日本語の文の基本的な仕組みである。
単に省略されているだけで文の命題構成機能を担っている主格を、もともとないものとする三上説を大前提にすると、人々のコミュニケーションの実情という現実を無視した文法理論になってしまう。
ついでながら、題目ー題述構造を、日本語文法の大前提に据えることによる社会的問題を指摘する。
こうした立論は、自然界や社会生活と文法理論との紐帯を欠いている。
そのため、社会的地位の上位者が特定の主題に関し、白を黒といいくるめるような好ましくない社会的言説に適合的である。反面、上位者であれ下位者であれ、事実や論理的判断に基づく現実に根ざした発話内容との相関を欠いた理論しか構成できない。
人が話す内容の妥当性よりも、誰が話すのかにより重きを置く傾向がある。言うまでもなく、日本語文法がこのような好ましくない傾向を作り出しているわけではない。しかし、日本語を理論的に研究する研究者が、このような傾向に適合する文法理論しか提示できていないことは問題視すべきであるだろう。
このことは、日本語の文法理論が、個別具体的な個人に立脚した近代化を果たしているかどうかという大きな分岐点である。