tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

日本語の「は」は、主題ではなくて、「題目」と言ったほうが正確であり、さらに、判断性のコピュラ機能がより基底レベルにあること。

   日本語の「は」は、(主題ではなく)「題目」を示す機能を認めるべきだが、それだけではないこと。

 同じく、日本語の「が」は、主格を示す機能だけではないこと。

 

 ここでは、基礎理論として前の記事に書いた理由にしたがって、「主題」と「題目」を区別して用いる。

 「主題」は、第一に、文の集まりで構成される談話や文章という大きい単位に現れる複数の「題目」のうちの中心になる「題目」とする。

 (なお、一般的語義としての「主題」には、中心的な「題目」、すなわち「主題」となる「題目」に関する話し手、または、書き手の主張を含み、その場合、「主題」は、「主題に関する命題」という内容の意味でもある。)

 この区別を採用すると、「文の主題」という用語法は、混乱しているように見える。この用語法の問題点は、「文の主題」を表すのが「は」であるという説とセットになっていて、そのような見方を取ると”「は」以外の助詞が「題目」や「主題」に関与する現象”の解明が等閑視されてしまうことである。

 「は」と「が」の使い分けの解明の妨げになっているとも言える。以下、その理由の一側面、情報構想と統語構造の観点から、説明を加えてみる。

 

 「題目」と「説明」とは、情報構造であり「伝達上の伝わりやすさ」に貢献し、「主格」と「述語」は統語構造であり、「文の意味構成」に貢献する。統語構造があってはじめて、そのうえで、情報構造が構成可能になる。

 「この本私が買いました」という文では、「この本」について、誰がどうしたかを説明していて、「この本」=題目(トピック)/「私が買いました」=説明というのが情報構造である。

 意味が同じ文「私この本を買いました」という文では、「私」=題目(トピック)/「本を買いました」=説明という異なる情報構造である。

 統語構造は、語と語が繋がって文意を構成する側面である。

「私は(/が)この本を買いました」では、

1)「私」=主格で、述語「買いました」と直結し、意味役割として動作主体であることを表している。

2)「本を」=対格で、同じく、述語「買いました」と直結し、意味役割として動作の目的であることを表している。

 統語構造段階で(または、統語構造の位相で)、命題的意味を構成する仕事は果たされている。「は」は、文の部分を取り立て、有標化するのだが、命題的意味を変化させるものではない。

 情報構造と統語構造とでは、統語構造をベースとして見るべきであるだろう。わたしの提起しようとしている基礎理論では、どちらがより基底的であるかがきわめて重要である。

 「私本を買いました」という形式的かつ意味的な基底があって始めて、情報構造レベルの「私本買いました」も、「本私が買いました」も取り立てが成立する。形式的かつ意味的な基底部分だけで、その文の内容は言い尽くされている。そもそも、本質的には、「は」による取り立ては、そうした文の一部文に付される、相手に分かりやすくするための装飾的変容である。ただし、この装飾的変容操作が、実質的な内容的側面に関する意識を圧迫して忘れさせるほど肥大している。

 忘れさせられているのは、ネイティブスピーカー全般におよび、それを理論的に解明すべき研究者の研究にまで及んでいると言っては言い過ぎだろうか。

 次のような例の検討をみていただきたい。

 

    統語レベルと情報レベルの二重位相という見方を「この本はおもしろい」のような定性関係を表す文にあてはめる。

 すると、「この本」と「おもしろい」とでは、文の指示対象である「本」が「おもしろい」性質を備えているという、いわゆる「属性」叙述と研究者がいうところの関係を「は」が示している。「は」は、「雨降っているよ」の主格同様に、前と後ろの直接連結していることを示す働きをしている。

 例えば、「この本は1解説は2おもしろい。しかし、作品自体は凡庸だ」という例文だと、「解説=おもしろい」であり、「この本=おもしろい」については明確に否定的である。「は1」を題目としても、「は2」の連結辞としての働き・機能を受け入れないわけにはいかない。

 このような例から、「は」につねに題目性があると言えないことが分かるだろう。

 では、談話・文章単位でみた中心題目である「主題」はどうだろうか。「主題」となる語句は、形態素だけからは決定不能であり、発話者の意図した内容次第で決まるものである。

 以下に例を示す。

 

(A)「この本はおもしろいよ。お勧めです」

   と続くなら、この文脈において、「この本」は「主題」になりうる。

しかし、

(B)「その本はおもしろいよ。でも、『兵士シュベイクの冒険』ほどじゃない。ぼくはシュベイクを勧めるよ。岩波文庫にしては、めっちゃ笑かっしょるで」

   と続くなら、最初の文は、話し手が「主題」(=『兵士シュベイクの冒険』を進めたい。)を導入するための文であって、けっして、「は」があるだけで「主題」であるとは言えない。

 文脈次第で、どんな形態素がつくかには関係なく、主題性が認められる。

 「は」の本質的機能を分析し、取り出すには、以上のような、統語構造と情報構造の二層構造を立てて、統語構造がより基底的であるとする見方が欠かせない。

 そして、すでにこのブログ内で前に書いているように、「は」と「が」は、対立しており、二層構造内部で交差しているのである。

 こうした統語構造をベースにして成立する情報構造という二層構造を顧みず、もし、「は」=題目、「が」=主格と、形態素と機能を位相の違う機能に一対一対応させて、排他的に限定すると、うまく「は」と「が」の使い分けが理解できない。

 その理由は、「は」も「が」も両方の位相にまたがって、交差して機能しているからである。

(1)文の題目ー説明という文の構造は、あくまで、主格ー(対格ー)述語という統語レベルの文意味を構成する構造があって初めて成立するからであり、

(2)「は」は、題目を示すだけにとどまらず、「トマトは野菜です」の「は」のような場合、判断文の主格と述語の関係に関与することが認められるし、

(3)「が」の場合も、主格にとどまらず、ある条件(=交差対立理論では、定性関係判断文の「は」→「が」有標化)では、例えば「私が上岡龍太郎です」のように、主格を取り立て、題目として焦点化する機能を担うことがある。

 統語構造と情報構造にまたがって機能する「は」「が」の存在は、日本語文が、異なる文構成機能のふたつの位相を、一元化していることを示している。

 こうしてみると、統語構造のうえに情報構造がのっかっていて、「は」と「が」が、二重のコピュラであり、かつ、条件次第では二重のトピックマーカーになる日本語の特性を踏まえて、日本語の基本的な文の仕組みを考え直さなければならない。(文の二元性の解明も重要だが、ここでは割愛する。)

 そうすると、情報構造の観点だけから、「は」の機能は「文の主題」を示すことだという見方の「主題」という機能概念も、文中の「は」「が」両方を、形態素としての個々の機能レベルから、もう一度見直さなければならないことになってくる。

 基礎理論では、「主題」としないで「題目」とする理由の一端もここにある。

 見直して出てくる解決案は、このブログの先行する記事に書いてある。

 

 しかしながら、現在の日本語学の主流の見方は、情報構造の「主題+は+説明」という見方を基底の位置に置き続けている。もちろん、そうした見方をとる論者も、この枠組みにとって例外的文法現象に例外的扱いをほどこす配慮はあるし、長年の局所的な研究成果の蓄積もある。そのことを認めたうえで、私見では、そのままの理論的枠組みでは日本語文の本質を取り逃がしてしまうので、根底から変えた方が良いと考えている。

    また、こうした複雑性妙で錯綜した「は」と「が」の使い分けを説明する枠組みは、

(1)日本語の基本的な仕組みと現実世界と文や文章との関係を明晰判明に記述でき、おまけに、

(2)自然言語一般と日常的意識に関する理論につなげられるようになる。

(3)哲学的には、日常で用いられる日本語の文から、法律や科学などの文に

至るまで、日本語の文の真理条件理論が確立できる。

   こういったことが、「は」と「が」の交差対立理論から、日本語基底文の二元論を原理とする日本語文法の基礎理論とその展開の射程範囲である。