tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

日本語文の体系的文法記述のための文機能分析法①

日本語文の体系的文法記述のための文機能分析法①

 

 この章は、次章以降の本文部分、基底文の理論、交差対立の理論を開示するお膳立てである。主格の省略の扱い、日本語の主格の問題、主格につく助詞「は」と「が」の主格への関与につながる分析法について述べる。

 本書により提起する「基底文モデル」と理論、<「は」と「が」の交差対立>の理論を定立する最初の作業は、多様な形式を展開する日本語文の基底に認められる共通の形式と機能の取り出しである。

 本書が目標とする、文の基底形式を確立する作業は、主格と述語の二語文の定式化である。これをあらゆる日本語文の原基的形態・最小単位として機能的形式の「基底文モデル」とする。また、順を追って、後で説明する「基本構文」を認める。「基本構文」は、純粋に形式的な「XはY」「XがY」「XはYがZ」を、意味タイプの違いによって分類し、リストとして提起する。

 文法現象として、実際の日本語では、主格が省略されることがよくある。そのような主格を、文の基底レベルの機能的な形式として位置付けるのは、理論的にどのように可能であるか論じる。その前提として、この章では、主格の省略、主格以外の省略一般が、日本語ではどうなっているのか見極めなくてはならない。

 また、理論的には、「が」の「主格」への関与については、研究者の間で疑問の余地がないものとして認められている一方で、主格と「は」との関係に関する理論が存在しない。この章では、名詞が述語につながることを表示する助詞「は」「が」「を」「で」「に」の一般的な分析法を確認し、「は」を副助詞、それ以外を格助詞とする分類と根拠について再検討する。

 本書の本論である、文の二元性原理と「は」と「が」の交差対立の理論について、先に知りたい方は、このお膳立ての部分である第1章を飛ばして、第2章から読んでいただいても問題はない。

 

主格の省略をどのように見るか

 「明日休みます」は、動詞述語文であるが、主語はこの文の発話者であり、「わたし」が文脈により自明であるから、省略することが可能であったと解釈してよいだろう。ところが「明日休みです」は、名詞述語文であり、「明日+は」は、主格であり主語であるという解釈の成立する可能性がありそうである。

 一方で、主格が省略されることが頻繁であることだけを考えるなら、主格の存在は義務的ではないかのようである。だが、あるいは、それらは文外の文脈などから自明であるから省略されただけであるかもしれない。

 助詞「は」=主題本務説とその継承理論の支持者の立論には、単なる省略であるものまで、省略ではない他の何か、(三上章の場合、三上(1959:「構文の研究」では「略題」、三上(1963「日本語の論理」では「消去」)として扱う主張が見られる。

 しかし、もし、文字通り文から主格成分が「消去」されて、文脈という手がかりすらなければ、「明日は休みます」は、誰が休むのかが確定できない。文の意味が充足されない。

 主格ほかの意味成分がないことを、省略以上のなにかと見る見方は、文を文脈から切り離して扱うことを可能にしてはいるが、基本構文の表現する命題的意味を構成する統語作用が顕在的・潜在的を問わず機能していることを覆い隠してしてきたのではないだろうか。

 そこで、文の成立前提として、運用上有意味な文ならば意味が充足しているはずであるという見地にたって、ひとつひとつの文をよく観察する。すると、主格が顕在する場合と潜在している場合とがあることがわかる。潜在している場合とは、基本的に、単に省略されている場合である。その場合、広義の文脈によって主格が自明なのではないだろうか。

 このように考えた上で、主格の省略以外に、主格の代理成分が構文上の主語を担う場合を認める方針である。たとえば、「学校ではテストをしています」「宮内庁では花嫁候補を募集しています。」

 ほかにも、たとえば、「頭が痛い」というような文では、「誰が」にあたる成分がない場合、文を聞いた人は、その文を発した当の本人と関連付けて、話し手自身の「頭が痛い」という解釈するのが通例である。この場合、日本語として意味が充足するようにパラフレーズするならば、ふた通りが可能である。「私いたい」「私いたい」

 日本語の慣用例を考慮すると、前者より後者が好まれる。これは、構文の問題である。拙論では、後者を基本構文「XはYがZ」の一タイプとして、基底文から理論的に位置付ける。前者は「(私の)頭が痛い」は、「修飾部+の+XがY」と「XはYがZ」の「Xは」部分省略のふた通りの解釈が可能な文として扱う。

 なお、文モデル<主格+は/が+述語>がそのまま基本構文を形成する場合もあれば、基本構文の要件を満たしつつ、主格成分の脱落する場合もある。例えば、「宮内庁では花嫁候補を募集しています」がそれである。そこで、別途、このモデルに関する説明以外にも、主格成分の脱落が頻繁に見られることの説明を補足しなければならない。これを認めることにより、体系的理論の裏付けのある「基本構文」の確定が達成できる。

 要は、主格の省略の理論を補助的理論として立てなければならないということである。

 

主格につく助詞「は」「が」の分析の原則

 主格の省略の次に、主格につく「は」と「が」の機能分析の方法について確認する。厳密には、「主格」に「は」がつくことを前提にするのは論点先取であるから、果たして、そう言えるのかについても考察する。

 そこで方法論的な補足として、「日本語の主格」そのものについての確認が必要である。「雨が降ってきた」の「雨が」が主格であることは、研究者の間で一般的に認められていると思われるが、「みかんくだものだ」のような文についてはそうとも言えない。私見では、三上章以来の「は」の主題表示説に影響されて、積極的に「は」の「主格」を表示する機能への関与を認める理論がこれまで立てられたことがないと思われる。どのような理論や手続き、条件の限定によって「が」の主格表示機能に匹敵する「は」の主格への関与の容認が可能であるか、明確にしなければならない。

日本語文法の基礎理論という体系の中での整合性を保つ「主格」の位置付けがどうなるのかを示す必要がある。

 日本語の文法現象を理論的に扱う手続きの原則は、各々の形態素の機能分析である。ここでは、原則に忠実に、かつ、具体的に、主格と述語、その間に入る助詞、それぞれ個別の文構成要素の機能確定方法を確認する。

 文の原理論としての「基底文モデル」理論、「は」と「が」の交差対立の包括的理論との関連は、基礎理論への導入を兼ね、適宜、触れることにする。

 

連辞:三上章の「は」=主題表示本質論と「主語」否定論の批判

 助詞の機能分析の手法は、研究者にとっても、日本語教育の現場でも、母語話者の直感を概念的に記述にするという、周知の手法であると思われる。ところが、もっとも重要な分析対象である「は」と「が」に関しては、先行研究では、そのような手堅い方法を適用してこなかったのではないかと思われる。文の基本に関わる機能的な形態素の分析という出発点を共有しながら、理論的解釈、理論的枠組みに相違が生じている。その理由は、助詞「は」と「が」の扱いを、あらかじめ、異なる助詞とみなしてしまうことから来ているだろう。そうなるのは、国学に由来し、山田孝雄が継承した副助詞・格助詞の区別であり、三上章の「は」=主題表示本質論と「主語」否定論の影響であるだろう。

 そこで、念のために、本題の基礎理論、基底文、交差対立理論の議論に入る事前準備として、助詞機能の分析法を確認する。以下は、本書により提起する、「は」と「が」というふたつの助詞に共通する「連辞」としての機能に注目することが重要であるという見方に論拠を与えるものである。

 本書により提起する「連辞」機能というのは、

 

 ①格成分と述語の連結それ自体を示す機能、

 ②ふたつの語の特定の意味関係タイプを示す、

というふたつの機能である。

 

 ②の段階で、主格、対格を位置付ける。

 三上章は、主格も対格も述語の補語として同格とみなそうとした。しかし、日本語の文の意味の中核である主格を重視するならば、主格と述語をつなぐコピュラが「は」と「が」のふたつあり、二重コピュラシステムを採用していることの認識に至る。

 主格が対格と異なるのは、述語を導き、述語がつくべき相手であることだろう。もしも、主格が省略されていて、文脈からも補充できない場合には、文そのものの意味が決定できず、文意が定まらない。

 

副助詞「は」の先入観凍結の方法

 この章で取り上げる助詞「で」など(「は」「が」以外)の連辞機能は、格成分と述語の連結と意味的関係のタイプを表示する機能を指す。「は」は、ほかにも、「取り立て」やいわゆる「文の主題」に関わるというそれ以外の機能を備えている。そのことは周知であるが、基底レベルの「は」の機能を確定する作業抜きに、後者の高次機能を語ることには問題があると思われる。

 この段階では、作業仮説として、文の基底形式は、主節の主格名詞と述語とその間に入る「は」と「が」によって構成されるものとしてみることにする。そうすると、基底文の正確で十分な理解のためには、まず、「は」=主題表示とする先入観を排除して、「は」(副助詞と言われる)と「が」「を」「で」「に」ほかの格助詞を等しく厳密に分析し、その結果として、ほかと区別すべき「は」「が」の特殊機能があるかどうか、あるとすればどういうものかを記述する方針をとる。

「雨降っている」や「これみかんです」のような直感的には単純素朴な文も、十分な分析を経た後では機能複合的であることがわかる。この章では、母語話者にとって自明ではあるが複合的な直感を、言語理論としての単一機能素に分解して、理論的自明性に至る方法を確認する。

 先行研究との関連では、積極的に認められていない「これみかんです」の「は」や、「みかんくだものです」の「は」を一定の条件下で主格との関与機能を認める道をつけるための前提の確認である。

 まず、「これみかんです」を主格として認めることに異論はないはずである。主格と述語の間に入る「は」と「が」のどこが同じで、どこが違うのかを、整合的に明示できる理論的枠組み、どのような認め方をすべきか、という課題への回答準備をするのが、この章の狙いである。

 過去に、三上章が「これみかんだ」を「これみかんであること」に言い換えることにより、「これ+は/が」を主格と判定する方法を示したことがあった。

 筆者の見地からは、この三上流パラフレーズは、「こと」がついた修飾節「これ+が+みかん+である・こと」の「が」は、私見では文法化している。現実の文脈に「これみかんだ」の「が」とは異なっている。このような三上の理解による「主格」性を根拠にしてしまったのでは、次のような構文制約が説明できない問題がある。(詳しくは§3を参照のこと)

 例えば、「これみかんだ」の「これ」が焦点の指定文になることの説明ができない。 

 もし、文が「こと」を伴わないで、特定の文脈に沿って「実定」文として発話されたなら、その文の「が」には、文法化した機械的結合以上の機能が存在する。次の章で明らかにするが、その「が」の機能には、文の根拠に関わる認識様態上の「直観」に関わっている。

 ここまでが第1章の概略と方針である。以下、個別の課題に取り組む。

  • 1で、助詞を扱い、§2で、主格そのほかの成分の省略を扱う。また、§3で、第2章以降の予備的考察、または橋渡しとして、主格—述語構造を基底としてみた場合の主題—題述構造の位置付けの理論的優位性を示す。

 

  • 1 機能語・助詞の分析方法と表記法

 

1−1 助詞一般の機能の把握方法

 

 まず、本書本論の分析対象となる「は」と「が」とは異なる助詞を例にとって、助詞一般の機能の分析方法、表記法を例示する。

 助詞の「で」を取り上げる。「で」には、いくつかの機能がある。

 

 1)食堂夕食を食べる。

 2)箸夕食を食べる。

 3)台風夕食が遅れた。

 

 助詞「で」の前後にある名詞と動詞の意味役割のタイプの違いに伴い、「で」の機能のタイプは異なっている。一般にパラディグマティック(範列的)関係である。

 それぞれの意味タイプを一般化し、パラディグマティックな関係を抽象モデルとして表記することが可能である。

 1)食堂で夕食を食べる。

   抽象モデル:場所+で+もの+を+行為・動作動詞

 2)箸で夕食を食べる。

   抽象モデル:道具+で+もの+を+行為・動作動詞

 3)台風で電車が遅れた。

   抽象モデル:原因理由+で+もの+が+変化・状態

 

 これと同等の抽象モデルを「は」「が」について作り、文の原基的形態とみなしてよいか、どのように機能しているか調べる作業が、先行研究とは異なる理路へつながるのである。

 

1−2−1 助詞の多機能性の分離と表記方法

 このように、述語動詞が同じ類型であり、<名詞句+で>の部分のパラディグマティックな関係が異なる場合、「で」の機能の区別を簡略化して、下記のように表記することが可能である。

 「で1」場所格

 「で2」道具格

 「で3」理由・原因格

 添字は、機能に区別があることを示すためであり、ここでは、数字の順番は特に意味のない、アドホックなものである。格助詞「で」を研究対象にする場合には、機能を分離するだけでなく、機能の関連の研究には、順番づけにも理論的意味があると思われるが、本書では扱わない。

 

1-2-2 「もの/ひと/こと+が+形容詞述語」

 

 ちなみに、「わたしこの部屋気に入らない」となると、「ヒト+は+場所+が+好悪感情」とすることでは、「場所」が不適切である。気に入る/入らないという好悪感情は、あらゆる対象に起こる。

 「この部屋」の意味タイプは「場所」ではなく「もの」(より正確にはものとして把握された場所)とすべきである。そこで、「もの+が+好悪感情」と分析すべきである。このとき「部屋」が、場所としての意味を残しながら、好悪の対象となる「もの」としての意味で主格に位置している。名詞が同じでも、文全体の中で見ると、述語との関係によって、名詞の意味タイプと格の性質は変化する。この場合、「場所+で」「場所+は」だけではなく、述語との関係を加えて文全体として見なければ、格の担う機能の種差・種類の決定ができない。

 また、言うまでもなく、ここでの「が」は、主格ではなく、対格である。ただし、このことを明確にするには、§2の<意味補充原則>を顧慮しなければならない。

 また、別の理由からであるが、「私は、田中君が気に入らない」となると、「田中君」の意味タイプは「もの」ではなく「ひと」とすべきである。

 抽象モデルは、「ひと+が+好悪感情」とすべきである。この「もの」「ひと」の区別は、交差対立現象の「人称詞」に関する例外規定に関連する。

 「給料の安いことが気に入らない」では、「こと+が+好悪感情」である。

 主格に入る場合の名詞句の意味タイプは、日本語の語彙としてもっとも抽象度の高い名詞カテゴリーの「もの」「ひと」「こと」である。これらみっつの抽象名詞は、「基底文」の主格を記述する文法用語として、文の抽象モデルに転用する。

 注)文法用語に日本語の語彙を用いる場合、どの形態素のどの機能を指すのか明示しなければならない。オブジェクトレベルで用いられる日本語の意味から、メタレベルでどの意味(厳密には意義素)を採用し、どの意味を排除するのか明らかにするべきである。

 また、外国の文法理論用語の翻訳語を採用する場合も、同様である。

 本書では、必要な場合、形態素の呼称と形態素の機能には異なる用語を用いる。注おわり)

 

1−3 助詞の「連辞」機能

 

1−3−1「連辞」機能の決定因

 

 ひとつの格助詞に複数の機能があることを確かめる分析法と表記法を例示した。簡単ではあるが、注意すべきポイントは、助詞の前にある名詞句のタイプだけでも、後ろに来る語句のタイプだけでも、助詞の機能素は決定できないということである。前後の語句の関係が変われば、助詞の個別の機能は異なる。

 問題の「は」と「が」についても、本来的に、機能の分離と確定は、前後の内容語(名詞、動詞、形容詞)の相互関係のタイプで決定することに変わりはない。次章で取り上げる「基底文」の二元性の原理も、同様の方法による理解が基本である。

 

 ここで語と語の間に入り、両者のつながりを示し、かつ、両者の関係を示す助詞の機能一般を、特に「連辞」機能と呼ぶことにする。特に本書で扱うのは、主格と述語の間に入り、両者の結合を示す「連辞」機能である。

 

1−3−2「連辞」機能の個別の差異

 

 ひとつの格助詞の複数の機能のそれかひとつを決めるのは、格助詞の前後の意味タイプ同士の結合関係だった。格助詞の機能を見るときには、次の場合も考慮しなければならない。

 前後の語が同じでも、助詞が変われば、文意が異なる場合である。以下の分析例の狙いは、あとでみる本書の本題である<主格+は/が+述語>の文の場合も、下記と同様に、前後が同じであっても助詞が「は」と「が」で入れ替われば、文の意味が同じではなくなる場合のあることの確認である。

 

 5)犬遊ぶ (行為共同格)

 6)犬遊ぶ (道具格)

 

 内容を見ると、5)と比べて、6)は、犬を道具とみなす点で愛犬家にとって看過できない含意の違いが生じている。

 前の語と後ろの語が同じであるにもかかわらず、助詞によって結合された関係が異なっている。また、この差異は、文脈とは無関係に確認できる。

 これは「と」と「で」の「連辞」機能のタイプの差異のみによって、連結の仕方に個別的な差異が生じている例である。単に語と語を結合する機能を一般的な「連辞」機能とするならば、連結の仕方の一般的な「連辞」機能に加えて、個別の連結の仕方の違いがあり、その違いを表示する機能を助詞が単独で担っていることが確認できる。

 

1−3−3「は」「が」の「連辞」機能とほかの機能の区別

 

 ここで、日本語助詞の「連辞」機能を積極的に重視しようと提起する理由を確認する。その理由は、第2章の分析対象である「基底文」の「は」「が」にも同様に「連辞」機能とそれ以外の機能が認められるからである。

 あらかじめ、「は」と「が」について本書の見解を、誤解のないように簡単に述べておくと、主格と述語の間に入る「は」と「が」については、連辞機能を認めたあとで、さらに、連辞以外の機能を認めなければならない、とする立場である。主格と述語の間に入る「は」と「が」には、「連辞」機能以外の機能もある。先行研究では、むしろ、連辞以外の機能研究のほうが出尽くしているといって良いだろう。格成分と述語の連結を示す連辞機能は、あまりに自明なため、敢えて理論的研究の動機付けとなりにくかったようである。

 ところが、この「は」と「が」は、ほかの「を」「で」「に」「と」のように文法化した連辞機能として、機械的結合関係だけでは説明しつくせない機能は、文全体を有標化し含意を付与する機能として措定されたことがこれまではなかったようである。このような有標化した文の含意のタイプは、その文を取り巻く広義の文脈条件との合成で決まる。これが、次の第2章で詳しく解明する交差対立現象解明の鍵である。

 連辞機能としては、土台となる機能として文全体の骨格を構成する機能があり、そのうえで、「は」と「が」が入る文には、発話状況や談話文脈など文外の外的条件と関連して生じる機能がある。

 

1-3-4 「は」による「取り立て」の「前提化」と「焦点化」①

 

 ところが、「焦点化」に関わる助詞は、「が」にも「を」にも認められる。

 例えば「あいつが犯人だ」の「あいつが」、「新聞を持ってきてくれ」の「新聞を」など、省略されていない項が一つであれば、それが焦点項であると判断できる。焦点の形態素は「は」だけではない。

 また、「は」による「取り立て」だけが焦点化機能を担うのでもない。

 「焦点化」は、潜在的には、どの格成分にも、ほかの副詞句などの状況語にも起こり得る。次の例文を考察してみよう。

 

 7)昨日、友達と映画を映画館で見なかった。

 

 談話文脈の話し手と聞き手の間で、焦点は、どれを話題の焦点として話を続けるかにかかっている。7)の文そのものは、どれが焦点であるかは、判明ではない。どれも焦点である潜在的可能性がある。「見なかった」の否定の焦点は、「昨日は」「友達とは」「映画は」「映画館では」のように「は」付加によって、どの項も潜在的な焦点可能性を顕在化させることができる。

 本書も、このような「は」の「取り立て」助詞としての汎通性を認める。その一方で、「取り立て」ではない格助詞に備わる焦点指示性を認めるものである。

 例えば、「新聞を持ってきてくれ」の「新聞を」は焦点である。否定の焦点には「は」がついているが、「新聞を」には、「は」がついていない。この違いは、助詞によって焦点化が起きる場合と、文の構成要素と文脈との合成により焦点化が起きる場合の違いである。

 注)基底文と交差対立の理論によるならば、「新聞を」の焦点化強度は、「みかんはくだものだ」のような「定性関係判断文」(無標レベル文)の「みかんは」の焦点化強度は、同程度であると言える。注おわり)

 本書の本題である「は」と「が」の輻輳した諸々の機能の区別を明確に理解するには、こうした同一機能の発現条件の違いを認め、語と語の結合関係を示す機能と、文を構成した後で文外の条件との合成で生じる機能の分離も有効である。

 一個の形態素が備える複数の機能を、単一の機能素に分離し、各々の機能素を、文と文を取り巻く文脈との全体的な布置に正確におきなおして確定する。

 

1−5 「は」の連辞機能:「これはみかんだ」の「は」の主格への関与と「主題」概念の問題点

 

 本書の“命題内容”と“形態素複合形式としての文”を分離し、両者の相関を分析した帰結から見て、先行研究に問題があると思われる点を指摘する。

 本書の立場では、「は」の「取り立て」機能は、談話中の「主題」提示機能よりも比較相対的に、より基底的である。「は」の「連辞」機能は、それよりさらに基底レベルの機能である。

 「は」のピリオド越えをする「談話の主題」表示機能は、より基底レベルにある「は」の「取り立て」に由来している。より高次の「談話の主題」提示機能という、談話レベルの文脈や状況との合成によって生じる機能を、助詞「は」の機能の本質としていることには問題がある。特に、本来、談話単位に当てはめるべき「主題」を、「文の主題」とすることには大いに問題がある。文単独の単位で見た場合、「は」によって取り立てられたとしても、「文の題目」として、「談話の主題」とは区別した方が良い。

 以下、「主題」の本来の意味から考える。

 主題、すなわち、主要な題目は、談話(文章)を構成する複数の文に認められる複数の「題目」のうち、もっとも中心となるのが「談話の主題」である。そう考えると、談話(文章)中の複数の「X+は」のうちどれが「主題」を表すかは、いかなる形態素複合形式をもってしても決定できない。また、「Xが」を主要な題目の候補からはずして良い理由もない。つまり、「主題」は、形態素形式を離れて内容から決定するしかない。

 

1-5-1 長いディスコース(マクロ構造文)のなかの「は」の効果

 

 「は」の連辞機能は、短い文では冗長ともなるが、文が長くなると有意義な機能を担う。日本語運用の実用的な局面ではよく見られる。主格と述語が遠くに離れ、その間に、長い従属節の挿入や、述語の前に長い修飾語がつく対格があるときなどには、どの語句が主格で、どの語句が述語であるかを示す機能である。

 以下の例を見ていただきたい。

 

「赤道部において、東西約百八十度、地球のほぼ半周にわたり、北極圏より南極圏にいたるまで、南北百十度の緯度にまたがるこの巨大な海、それ一つで世界全海洋面積の半分近くをしめ、地球全表面の三分の一、地球上の全大陸をしきつめても、なお二千万平方キロをあますほどの水圏を形作っている。」

 (小松左京日本沈没小学館文庫p26)(下線部筆者)

 

 この例文のマクロ構造を取り出す。

 <(関係節1)+「この巨大な海」+は+(長い関係節2)に+「水圏」+を+形作っている。>

 このマクロ構造は、

主格(この巨大な海)は + 対格(水圏)を +述語(形作っている)

 

という基底構造の上に成立している。

 長い関係節1は、主格名詞句の詳細な内容を規定している。また、長い関係節1と2は、広義の意味で述語を構成する対格名詞がなければ、この全体構造に現れることができない。この点で、マクロ構造を可能にする基底構造として、主格—(対格—)述語構造が存在している。

 この長い文の内容面にも触れておきたい。

 文全体が書かれた意図は、同一の対象に関する異なる観点———自然地理的観点と惑星物理学的観点———による長いふたつの修飾部分同士の関連を示すことにあると考えられる。つまり、同一対象に関する異なる学術的観点からなる理解の関連づけによる情報提供である。

 このような関連づけを示す基底構造の土台部分によって、修飾部分同士の関連を示すことが可能になっている。こういった土台がなければ、文字通り取りつく島がない。被修飾部文の基底構造があって初めて、修飾部が文全体に適切な位置を占めることができる。

 ほかにも、例えば、「これはみかんです」のような文が実際に使われることが少ないが、この基底構造があって初めて、「これは温州みかんです」や「これは有田みかんです」のような修飾部分に発話の意義が可能になる。

 マクロ構造に現れた主格の後ろの「は」の箇所には、ほかにも無助詞にする場合と、「が」を入れる場合が考えられる。だが、無助詞にしたのでは、読み取りが難しくなる。無助詞よりも、「は」なり「が」なりが存在するほうが述語との関係が分かり易い。

 

1−5-2「単純措定文」の「は」の冗長性の意義

 

 ただし、「これ ∅ みかん」のような場合、「は」を入れなくても、主格と述語の結合関係は明瞭であり、「は」が入っても、一般的な「連辞」機能としては冗長である。しかしながら、先の例文で確認したように複雑な構文では、冗長とは言えない。

 たとえば、実際的な場面で、「これはみかんだよ」というような文を使用する例は、①「みかん」という語を教える場合や、②そのことを強調する場合である。後者は、たとえば、こどもたちがみかんを投げ合ってあそんでいる場面で、ボールのように扱ってはいけないと注意するような意図のもとに発話されるだろう。「これはみかんだよ。(食べ物で遊んじゃだめだよ)」語用レベルの含意を伴う。こういった含意は、談話文脈により無際限に変化するであろう。

 

 通常、<名詞+は+述語名詞>のような文の実用的な有用性は、この基底的な構文になんらかの修飾部分をつけて、その修飾部分を導くことに効用が認められるだろう。

 

「これはとれたての有田みかんだよ」

 

 文のやり取りをする人の間では、「とれたての有田」が前景化し、基底部分は後景に退いているだろう。見ればみかんであることは言われなくてもわかっており、「とれたての有田」であることは、言われなくては分からない場合である。

 本書では、こういった文のやりとりでは、後景に退いてしまうような文の「基底レベル」を理論的に前景化し、その機能を解明する。

 

1−5-3 「は」の連辞機能のほかの機能の扱い(焦点化②:1-3-4の続き)

 

 もちろん「は」について、「は」が文を構成するある要素を焦点化する「取り立て」機能を認めなければならない。だが、それ以前に、語と語の連結を示す、より基底的機能として、主格と述語の直説結合関係に関与している機能である「連辞」機能の確定を先決問題として重視する。このことはすでに説明した。

 同じ連辞機能のある「は」であっても、述語につなげる場合と、後続の文ぜんたいにつなげる場合がある。以下は、基礎理論の結論だけを述べて、説明はのちに述べる。

 対格を取り立てる場合、「ファックスもう送りました」では、「ファックス」と「送りました」の間に、「は」があってもなくても、対格と述語の関係が成立している。「は」が主格と述語の間に入る場合とは、別途、しかるべき、格関係を解釈すべしという格関係の所在を表示する機能を認めるのが妥当である。

 「ファックス便利だ」と「ファックスもう送りました」という主格と対格成分につく「は」を比較することは、重要である。「主格+は+述語」(「ファックスは便利だ」)では、文単独では、主格の「取り立て」とは言えない。ただし、文脈との合成で、「既出の話題」の継続として「取り立て」とも見なしうる。(文全体の有標化の有無については、第2章で取り上げる。基礎理論の要の見方である。)

 一方、同じ「主格+は+述語」でも、「ファックスもう送りました」では、「を」が入るところに「は」を入れて、「ファックスをもう送りました」という文を有標化しているので、「取り立て」機能が発現していることが文単独で明白である。

 「明日私が行く」の「は」は、副詞句を「取り立てる」後続の文全体を修飾する連辞機能である。(×「明日私が行く」とは言えない。交差二項対立による「は」と「が」の交代可能かどうかによる「主格成分の判定」による。)

 「明日は行く」とも言える。「明日は私が行く」との違いを、形式の違いに目を奪われて、命題内容の同一性という文機能の観点を合わせて考慮しないと、日本語の文形式と文の意味内容の一致を見出すことは不可能である。「私が」の有無は、文脈との合成によって、単なる省略と見るべきである。(第1章§2参照)

 基底文・交差二項対立の理論と合わせて「連辞」の諸機能を確定した後になると、真性の二重主語構文であるかそうでないかの判定が求められるような例、「私痛い」「明日会議ある」を基礎理論の枠内でその判定を扱えるようになる。