tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

はじめに②   ⑶<問題設定:主語+は?それとも、かつ、主題+は?>

はじめに②

 

⑶<問題設定:主語+は?それとも、かつ、主題+は?>

 ところで、日本語には、基礎理論(交差対立理論、文の二元性理論)のような理論を一筋縄では許さない文法現象がある。

 主格以外の成分にもつく「は」の存在である。たとえば、「ファックスもう送りました」の「は」、このような主格以外にもつく「は」を含めた理論的解釈としては、研究史上、周知のごとく提題の「は」と言われている。

 むしろ提題の「は」にばかり研究者の関心が厚く、三尾砂のいわゆる判断文の「は」、現象文の「が」に関する研究は、筆者の参照した範囲では、提唱者の三尾砂以降、あまり進展がないようである。この空隙を埋めるのが本書の基礎理論であると筆者は考えている。

 筆者は、交差対立理論を確立するにあたり、「これみかんだ」の「は」を、提題の「は」とみなせる条件を談話・文章単位に限定したうえで、判断文の主格の「は」であるとみなす。「は」の両義的機能を認める立場をとる。

 さらに、提題の「は」の機能より、判断文の「主格」の「は」の機能の方が基底レベルであるとする立場である。このように、日本語の「主格」の見直しをしなければ、「は」と「が」の使い分けの課題は解けない。

 

 このような立論の理由は、それだけではない。

 次の文の主格、「雨降ってきたよ」の「が」には、談話の初出時に、「は」には変えられないという構文選択の制約条件がある。この文法現象を説明するにあたり、「が」を単なる主格にとどめる従来の解釈では不十分である。

 こうした構文制約を文法理論に組み込むために、「は」「が」両者に異なるモーダルな(認識論的な)機能があることを認めなければならない。

 主節の主格と述語の間の「が」には、その文の命題部分が直観に基づくことを示すモーダルな作用もある。翻って、「は」には、その文の命題部分が論理図式に合致する判断に基づくことを示すモーダルな作用もある。つまり、基底文中の「が」は直観、「は」は判断に関わる。

 また、談話・文章の主題に関わる「文の題目」も、「は」だけに限定できないことを指摘しなければならないだろう。「は」以外にも、「猫いるよ」「新聞持ってきて」などの場合も、談話の主題になり得る。

 このことは、「は」の「主格」や「主語」の表示機能を認めない立場の研究者も認めている。ただし、三上説を踏襲する後継研究者は、文法理論にうまく組み込む方針をとっていない。この場合、たとえば野田尚志は、「は」の主題性を「顕題」、そのほかを「隠題」と区別している。

 しかしながら、こうした区別は、三上説を擁護する役に立つが、文法現象としてはたしてその区別が有意義がどうかには疑問がある。筆者の立場からすると、「現象文」の「が」の文法制約を説明するモーダルな視点を回避する立論であると言わざるを得ない。