tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

はじめに⑥ ⑺<先行研究との相違点・継承する説:三尾砂説と提題の「は」理論の統合>

⑺<先行研究との相違点・継承する説:三尾砂説と提題の「は」理論の統合>

 

 基礎理論の立場からすると、これまでの研究は、あまりに助詞の「は」=提題という、日本語の固有の側面に注目し、普遍的側面への関心が薄すぎることを先に指摘した。普遍的側面とは、文が文として成立している限り備えている主格と述語という必須構成要素がいかなる文の基底にも存在していることである。

 こうした見方に理論的表現を与えようとするなか、本書が提起する理論とのあいだにもっとも葛藤の生じる先行研究が、「主題—題述」構造本質説である。この説は、三上章の「は」=主題表示本務説を前提とする、寺村秀夫、益岡隆志、野田尚史の研究の蓄積に直接寄与している。本書の基礎理論は、後発の理論として、これらの理論が大前提とする「は」=主題表示本質説は、日本語文一般に適応できるものではないとして、適用範囲の厳密な制限を求める議論を含む。

 本書が部分的に継承する先行研究は、三尾砂の「現象文」「判断文」の二元論に「が」と「は」を割り当てる着想、それに加え、筆者にとっては、交差対立理論確立後に発見することになった、大槻邦敏の「はとがの使い分け」という論文である。また、大槻がこの論文中で参照するように注意を促している奥田靖男の三上説批判、統語レベルと構文レベルを区別すべきだという指摘を、筆者も研究途上で参照し、本研究の進展と改善につながった。

 ただし、奥田靖男による三上説批判のひとつに、ついに理論体系を構築しなかったという批判があるが、そうとも言えないと筆者は考える。その理由は、上に述べた通り、「は」の主題本務説、または、「主題—題述」構造本質説を大前提とする寺村、益岡、野田の諸研究が提示した理論や命題を合わせてみた場合、複数の研究者によって構成された理論として体系性を備えていいないとは言い難い一面がある。

 したがって、筆者は、これらの理論を体系の一環としてみた場合の妥当性の観点からも、問題点を検討した。

 三上説を大前提とする点で共通している複数の研究者の理論を体系的に再構成して把握するならば、相互に整合的で、一定の説明力を備えていることが認められる。