tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

日本語文法の基礎理論:「は」と「が」の使い分けの理論的解決と展開 (体系的アプローチの解説)

  前の記事にあるような、「はしがき」から始める学術的に十分な内容を備える一書の完成を目指し、原稿を書き綴っております。

 8割がた書き進んだ後、なかなか執筆作業がはかどっていません。

 このテーマの研究をとうに終えて、わたしとしては、答えはもう出ていると考えています。それを世に問う手段の一つとしてこのブログを利用しています。

 

 「は」と「が」の使い分けの理論的解明は、主格と述語の間に入る「は」と「が」の交差二項対立現象の理論的理解が鍵になります。「交差二項対立」とは私が研究を進める上で名付けたものです。

   すでに研究のある、新情報、旧情報、指定と措定などを始めとする局所的現象群の総称です。

 ついでに言うと、佐久間鼎氏の「品定め文」「物語文」以来の文の二元性の議論に関しても、認識論的観点と論理的観点から基礎付けを行います。交差対立理論を起点とする基礎理論の射程に、こういった論題も含みます。

 この現象群の存在の指摘は、拙論の先駆けとして、大槻邦敏氏の「「は」と「が」の使い分け」があります。また、大槻説の前提は、論文内に言及はありませんが、三尾砂氏の「判断文」の「は」、「現象文」の「が」という日本語文の二元論と「は」「が」の使い分けを関連づけた説として扱うことができます。

 拙論は、三尾氏、大槻氏の理論に理論的洗練をほどこし、体系的基礎付けを施し、学問的に妥当な水準に引き上げたものだと考えています。

これまでばらばらに論じられてきた諸説を原理に沿って統合し位置づけ直すことになります。
 洗練にあたっては、形式論理学現象学的認識論のごく初歩的な分析手法により、自然言語を挟み撃ちにするような形で基礎付けています。

 おいおい明らかにしますが、20世紀前半の論理の数学化に基礎を置く言語哲学フッサール現象学(経験を可能にする意識現象からイデアルな概念がいかに生じるか追及した)観点から見て、日本語文法理論の現在の様子は、不十分な点があることを指摘せざるを得ません。

 

 さて、分析の起点となるのは、基底レベルの日本語文です。
 以下、これを「基底文」と呼びます。

 「基底文」は二元的です。

  この二元性は、文の命題内容のタイプだけで決まります。「は」「が」が交代しても変わりません。交代によって変わるのは、認識内容ではなく、認識様態です。

 

 「これはみかんだ」「みかんはあまずっぱい」などは、無時間的でアスペクト性のない、「定性関係命題」を示し、このタイプの文に入る「は」は、①主格と述語が連結していることを示すコピュラ機能、②主格と述語の結合妥当性を示す「判断」付与機能を担っていると考えられます。(この説の妥当性は、実例分析によって示し、また、三上章氏以降の「は」=主題表示本務説との異同は、のちほど触れます。)

 拙論によるならば、「これみかんだ」「みかんあまずっぱい」などは、「基底文」であり、「定性関係命題」の「判断」妥当性を示す文となります。

 また、このとき、「は」を「が」に入れ替えた場合、基底レベルの文に何らかの含意が付与されます。「これみかんだ」「みかんあまずっぱい」

 ここで注意すべきは、「は」→「が」の交代は、①文全体として無標の文を有標化して生じること、②「が」によって示される含意は、文を発信する話者の直観に由来し、③多様な潜在的含意の最終的効果は、広い意味での文脈との合成によって決まる、ということです。

 

 もう一つ「が」→「は」の交代があります。

 「雨降っている」は、①出来事として時間軸上の一点に紐付けられるという制約と②話者(もしくは情報提供者)による目撃という認識論的制約があります。これを、拙論では、「事態」とし、この主格と述語に「が」が入る場合、「が」はこの文が表す命題が感覚器官を通した直観によることを表している、と考えられます。

 この「が」を「は」に変えたならば、文全体を有標化し、この事態タイプの命題内容について、1)「判断」としての妥当性を付与する含意か、2)主格の「雨」を会話の話題として、取り立てている含意を付け加えたものとみなします。

 

 後者の2)の場合、古くは松下大三郎氏の指摘以来の「提題」の「は」が認められます。拙論の基礎理論の体系内では、「は」の「提題」機能は、基底レベルの無標の文にはなく、交差対立の有標化による上位レベルの機能に位置付けるべき機能です。

 

 尾上圭介氏は、『日本語文法事典』の担当項目「主語」の中で、形式的に「主語」を定めることは不可能であるとして、意味機能による「主語」定立の可能性を示唆していますが、基礎理論では、形式面と意味機能の両面から「主語」の定立が可能になります。

 基礎理論の貢献は、日本語文の基本構文を理論的に取り出すことを可能にすることです。ここでいう基本構文とは、日本語文のあらゆる派生的構文の原型・原基的形態です。実践的観点では、基本構文は、英語参考書でおなじみのS—V、S-V-C、S-V-Oなどに当たるものです。

 ところで、こうした形式と機能の一致が見られなかった研究者の間で見られなかった理由は多岐にわたると考えております。

 その一端は、理論形成を目指して、日本語文の文法的側面を現象として観察する段階で、単なる主格ほかの格成分の省略現象をほかの何かと取り違えているか、度外視するか、とうことがあります。文を文脈から切り離して論じることも、省略の把握の間違いと裏腹です。また、「は」「が」など助詞の機能の本質をひとつに絞ろうとしてきたことにもあるようです。

 

 こういうとき、三上章氏の「は」=主題表示本務説は、拙論とどういう関係にあるか触れておかなければなりません。

 交差対立の例の「これはみかんだ」「みかんは甘酸っぱい」の「は」に単独で「主題」表示機能は見出せません。文脈との合成により、「は」が「判断」含意を果たしたうえで、談話の主題としての取り立て機能も担っているかどうかが、決まります。

 そもそも本来の「主題」の意味からして、文単独の単位に関するものではなく、談話・文章単位の対象に生じるのが「主題」です。

 三上説については、「は」と「が」の使い分けが十分に説明できない点にとどまらず、部分的機能でしかない「は」の提題機能をして、日本語文一般の理論とみなして「主題ー題述」構造を当てはめようとした点に関して、拙論の基礎理論の立場から、根本的な批判を加えることになります。

 

 「は」と「が」の機能の本質は、その本質が二元論的な文のちがいという基盤のうえにどのように顕在化するか、このことを明らかにするのが、交差対立の理論であり、日本語の文の二元性の理論です。
 日本語そのものの基底レベルの文とその展開形を区別し、「は」の主題表示機能を基礎理論からどこに位置付けるべきか、などの日本語の文法現象を記述する枠組みが要請されます。

 こうした論考は、日本の近代化以降の国語学・日本語学の関連する主要な理論を吟味検討したものです。

 日本語学文法領域の基礎論的理論の体系だけではなく、概論に止まりますが、論理学・認識論・関連諸科学による自説の裏付けができています。

 残る作業は、書くべき内容を実際の原稿として整理するだけなのですが、それに年月をかけて8割ぐらいは書いたのですが、仕事もあってしばらく止まっています。

 そこで、いずれ世に問う予定の本の概要をブログに発表しようと決めた次第です。

 

 書かれるべき本の紹介という体裁で、「は」と「が」の使い分けの理論的解決とその展開としての基礎理論の体系をできるだけ簡潔に説明します。