tadashi's blog

私は在野の研究者です。日本語教師をしながら、日本語の「は」「が」の使い分けを解明する理論に至りました。それから、この理論を文法基礎理論として体系化し、また、それらを裏付ける哲学的かつ科学的に裏付けの研究に進みました。

2020年、わたしの反省。表向きと実際

表向きは、次のようである。

コロナのおかげで、今年は、仕事が極端に減り、空いた時間で、積読していた本、感染症関連の新しく買った本がたくさん読めた。

 

一月は、デフォーにカミュ、それにデカメロン、エプタメロンから始まり、千夜一夜物語紅楼夢聊斎志異、唐宋説話集、源氏物語など。

 

春になって、学術的なのでは、今は初期人類を対象とした雑多な学問分野に興味がありながら、いきなりは難しいので、都市国家、主に、シュメールとインシャオ(中国)の比較から、地中海の古代世界、オリエント史、古代帝国、ペルシャ帝国、アレキサンダー大王の遠征期、秦と漢、インドなどの共通点、相違点を大雑把に掴んだ。そこから逆算して、初期人類の無名の英雄(宗教的、技術的、文化的、政治的に、それぞれ特異な才能を発揮した男女)の時代があったのだろうと想定できるだろう。都市国家の誕生は、最初の記録に残る英雄時代であった感を強くした。

 

何故こんな読書に勤しんだかと言うと、日本語と自然言語一般の交差領域に関する解明に伴って、人間の意識と言語の二元的精神性を軸とした自分なりの科学的人間学の基盤を、歴史的事実性に依拠して検証し、鍛え直すためだった。初期人類の野生=生身の人間たちの社会文化適応とテラフォーミングの果てに今や人新世と言われる現在までの人間性の恒常的な面と変わって良くなったところ悪くなったところを、あたかも自分の目で見るかのように、歴史的文脈に人類を置いて眺めなおしたいと言う願いを叶えるうチャンスだと思ったからだった。

 

こうした研究的な・探究的な読書により、現状の人類自身の内部に潜む危機的条件をどう乗り越えるか指針のようなものがおぼろげに、精度の悪いホログラフのようにというか、なんというか・・・計画倒れに終わった。ここまで書いたのは、始める前の、捕らぬ狸のなんとやら、幻の読書計画!残念!あな口惜しや。

 

・・・で、実際は、どうだったか。そんな、来たるべき人類の新ステージへ至る道標などちっとも見えなかった。読書そのものができなかったんである。おれ、歴史書、向いてない。哲学書のほうがまだ、読める。

 

それほどたくさんの読もうと思った本がほとんど読めなかった。なんでかわからんが、続かなかったのよね〜❤️

チャンス!と思って、2月後半、最初に読み始めたのが、ちくま文庫「人間とは何か」(脳科学のやつ)上下の上の半分くらい。そこで、中央公論の世界の歴史シリーズ17「ヨーロッパ世界の開花」に移り、完読するのに2ヶ月かかって、思うところあって、宮崎市定「中国史」(岩波全書版ー現在文庫入りしてるやつ)これも上下巻の下に入ったところで止まった。韓国語初級から中級へ行こうと思う学習を少し地道にやったのが夏頃だったかなあ。あ、そうそう、このころTandemという言語交換アプリをはじめた勢いで、中国語もやらねば、仕事でもできたほうがいいので、と中国語熱が短期的に発生した。それから、ネットフリックスで韓国TVドラマ、韓国映画を見たり、ラジオ音声アプリラジコで、おもに、TBSラジオの平日番組を聞きながら、サイトの無料ゲームのソリティア、将棋、麻雀をする悪い癖がついた。

 

広瀬隆「日本の植民地政策と我が家の歴史」は、まあ、全部読んだ。あと、神保哲郎のマル激トークオンデマンドで紹介された、「ロッキード疑獄事件」を購入したものの、やっぱり悪い癖のせいで、ちょびっとしか読めてない。

 

体重も、8月暑さのために運動あまりしなくなったのが9月も続いて、当月末にこれまでの体重記録を更新してしまっているのに気がついて、10月は結構、屋内の運動ではあったが、体重を以前の最高水準並みに戻した。11月はまた運動を怠けてしまい、この20日ぐらいは、長い距離を自転車に乗ったり歩いたりしている。

 

というわけで、問題意識ばかりが先走り、世界的感染危機の状況への対応策としておうちで好きな本読んでいてもいいんだなあ、うれしいなあという状況、一歩外に出た時の緊張感と屋内生活の弛緩が一私人である私の心のリアリティを乱し、果たして、時間が、ああもったいない一年を過ごしたと言う結論。

 

来年は戦線縮小、アウトプットできる範囲の読書&研究計画、生活の時間管理、運動、無料のゲームサイトとネットフリックス視聴の最大限の縮小などをします。

 

還暦過ぎて年齢に伴うあれこれの衰えもある模様。

 

意識の言語系と認知ー行為系の二元論と両者を媒介する想像領域の世界モデル

1 「言語共同体意識相」

 

知性の源としての言語を行使する個人の意識モード(相)を言語意識とする。静的である。他者からの伝聞を受け入れて身の回りの行動範囲に限定されない、世代を超え、空間を超えた世界像を構成する。

これを「言語共同体意識相」とする。

予兆としては、別々の自然言語に隔てられたローカルな言語共同意識が何らかの人類言語にとって変わられるべき歴史的必要に呼応して生成する兆しが点在しているかもしれないが、今のところ差しあたっては、インターネットを通じて実行されるコミュニケーションの広がりと直接越境するビジネスマン・留学生・移民労働者・難民・旅行者・密航者などの実践、国境を超えた広がりがあるのだが、これらを、政治的分割線と個別の自然固有言語の壁に遮られている。

 

2 「認知行動意識相」

 

身の回りの行動範囲内において、直接身体による個人の活動領域になっている時間と空間は、認知ー行為意識とする。動的である。この内部には、もの対我、汝対我、我々対彼らなどの分岐が含まれる。「環境<ー>直接知覚・認知<ー>行為」の三つに分節される三相の相互作用領域である。

これを「認知行動意識相」とする。

 

3

両者を媒介するのは、「想像力」であるだろう。

 

個人意識に定位して想像の働きを見てみよう。

 

3ー1  現在の想像

 今ここで知覚可能な範囲の外の世界の空間的広がりを、向こう側に関する想像を働かせている。近い過去同様、記憶に基づく再現。

 基本的に、経験則に従い、記憶に従って、自分で直接経験した場所の記憶が未だそこにあると想像するだろう。

 これに、知人やメディアなどからの間接情報、伝聞情報があれば更新している。

 地理的な社会的集団記憶と個人的記憶は、境界が曖昧なところがあるが、次に述べる過去記憶の社会的構成力による客観性の疑わしさの程度は低い。「現実」に素材する場所鋭気さすれば、捏造情報などは虚偽であることが確認しやすいので、デマ情報も作りにくいからだろう。遠方に関するデマ熱情情報は、むしろ、近い共同体の都合により捏造されるおではないだろうか。

 

3ー2  過去の想像

 生まれた後の個人的体験過去は記憶に基づく再現である。

 年齢を加えるに従い、印象の残るエピソードや場所の記憶は再現が困難になったっり、客観性を失い、作り替えた記憶かどうか判然としない場合が生じる。

 それ以外の過去は、間接的な情報に基づかざるを得ない。

 

 個人位もたらされる過去の意識の形成は、社会集団の過去記憶の再現が直接見知りのある知人間で共有される場合から、歴史記述や過去に関する資料の参照まで幅広い。

 

3ー3 将来の想像

 将来の想像は、現在の把握、過去の記憶の参照の合成から、価値判断、客観的未来予測の合成として意思的に想像される場合がある。

 夢による予知は無意識の願望の発露であるか、情報の総合による不安意識などによる。

 現実の個人の能力・可能性に依存して、意思決定に関与する。この点においてヒトの将来・未来の想像は、現在の意思決定にフィードバックする。

 

4

伝統的に理性と感情の矛盾として扱われてきた個人意識内部の相克を、純粋意識と言語意識の二元性問題の扱い方を洗練させる方向で、自然システム(地球上の生態系)の構成要素であり、動物の一種であるヒト、いわゆる知的動物であり、理性的存在であると自認しつつ、段階的に行き着く結果には無自覚に遂行してきたテラフォーミングの惨状を見るなら今のところ合理的ではないところを多く残しているヒトの存立基盤の解明に、こういったアプローチの可能性を考えている。

「私の日本語文法の新しい基礎」(その1)

一般向けに私の日本語文法の新しい基礎の記事を始めます。

 

題して「私の日本語文法の新しい基礎」(その1)

 

はじめに

 日本語話者の統語感覚と構文感覚を解明して、「は」と「が」の使い分けを理解・説明し、文の二元論原理、「は」と「が」の交差対立理論、全ての日本語文の派生形の雛形となる基本構文リストに至る道

 

これは、日本語文法の基礎の一般向け解説です。

 新しい基礎文法です。

 文法が新しいとは、これいかに?

 学校で教えている文法と違います。

 さらに、日本語を研究する日本語学(旧国語学)の理論的文法とも違います。

 学校文法も、ある時期の学問的成果を反映したものですが、その後日本語学の方が転機を迎えて違ってしまったという事情がありました。

 基礎文法の利点は、どちらの「文法」でも、十分に理論的に説明していなかった、<「は」と「が」の使い分け>をきちんと説明できることです。

基礎文法のスタンスは、日本語ネイティヴである話者に備わる「統語感覚」と「構文感覚」を忠実に反映しています。通常、意識されませんが、日本語文の場合、統語レベルと構文レベルの二層式になっているのです。

 基礎文法は、文法と現実を直接関連づける文法でもあります。

 

 簡単に「統語機能」と「構文機能」の違いを言うと、前者は単語と単語の関係を示す機能で、後者は、人から人に情報伝えるときの分かりやすさや文脈を構成する機能です。

 主格―述語関係「犬吠えた」「みかん好物だ」が統語レベルの主格-述語関係の代表です。そして、このまま構文レベルの主語-述語構造が成立しています。統語レベル、これをもっとも土台になる骨組みの仕組みとしたら、構文機能は、その上に工夫を加えた仕掛けとでも言いましょうか。

 文の内容、命題をかえずに、上の代表例を違う構文上の主語―述語関係に変えることができます。「犬吠えた」「みかん好物だ」(後で説明する基礎文法の真骨頂である交差対立の例です。)

 次の例を使って、三者の文法の違いを見て見ましょう。意味が同じで、形式が異なる文です。以下の説明が分からなくても、心配しないでください。本文でわかるように説明しますから。

 

A「ウイルスが生物を進化させた」

B「生物はウイルスが進化させた」

 

 学校文法では、Aの「主語」は「ウイルスが」、Bには大主語「生物は」と小主語「ウイルスが」です。

 日本語学では、一概に言えませんが、最も多くの研究者が支持するのは、Aの「ウイルス」は「主格」、Bの「生物は」は「主題」とします。「が」は格助詞で統語機能に関わり、「は」は「主題」を表すとしています。両者に割り振ったそれぞれの機能は排他的に専有するものとされてきました。その上で、研究が続いています。

 基礎文法の立場からすると、「は」=「主題」という用語や排他的な機能の割り振りには、同意しません。

 基礎文法では、一文二層式を採用します。どちらの文にも「主格」と「主語」が認められるとします。AとBどちらの文も、伝える命題内容の意味は同じで、意味に加える含意だけが違うからです。

 文Aでは、「ウイルスが」が「主格」であり、構文上の「主語」であるとします。

 文Bでも、「ウイルスが」が「主格」であり、「生物は」が構文上の「主語」であるとします。本文で説明しますが、「は」と「が」の役割について、どちらにも格助詞、構文構成機能を認めます。

 基礎文法の立場から言い直すと、これまでの日本語学では、「は」には、「主題」という構文機能、「が」には主格という統語機能を割り振って、排他的に理解してきました。基礎文法は、そこを改めました。

 一文二層式の理解・説明を採用しないと、<「は」と「が」の使い分け>が解けないのです。先行研究者が試みなかった、一つの文に両感覚が重なっていることを認め、明確に分離し、整理しました。基礎文法は、原理を備えた体系的な文法理論です。ただし、基礎的な部分に限ります。

 以上、三者の文法のどこが異なるか紹介しました。ここに提唱する新しい基礎文法は、学校文法と日本語学のギャップを埋め、統一に導くものでもあります。

 補足として、ここで、一言、批判的な注意を加えておきたいことがあります。言説内容の正しさや妥当性を基準にしないで、誰がどの地位の人が発言したかに重きを置く社会的傾向があちこちに見られます。伝達上の便宜に関連づけられる「は」=「主題」機能を重視するあまり、文の形式と命題内容の関係に関わる統語機能を軽視する学説は、この悪しき社会的な傾向を押しとどめる力にはならないと思われます。

 

 基礎的な文法の扱う範囲は、ごくごく基本的なしくみに限ります。従属節は扱いません。つまり、主節だけです。敬語にもまったく触れません。最低限の文の骨組みに照準を合わせています。その代わり、厳密です。日本語には、形式と機能の一致が見られないと嘆く研究者もいらっしゃるのですが、形式と機能の一致点を見出すことは可能です。

 外国人が使う日本語教科書初級レベルが全部で50課までとすると、初めの20課ぐらいまでの、そのなかの基本的な文の構造に関わる部分くらいです。それに教科書でも扱わない内容を加えます。当然、新しい文法がこれまで顧みられなかったところに照明を当てるので、既成の教科書に欠けている内容の方が主な内容です。

 

 文法と聞くと、私は、日本で生まれ育ったし、文法なんて興味ない。知らなくても日本語が使えているし、などと思う方も多いでしょう。私もそうでしたから気持ちはわかります。

 文法など知らなくても日本語を使う環境で生まれ育ったなら、コミュニケーションに何の問題もありません。日本語を学習している、外国から来た人ならいざ知らず。古典を読むためなら文法知識がないと理解できないけど、現代日本語の文法は必要かな。何かの役に立つのかな。

 そんな疑問を持つ人には、基礎文法は、現代日本語のごく基本的な仕組みに備わっている、複雑精妙な仕組みを知ると言う知的好奇心の満足がありますよ、と申し上げたい。

 私個人は、日本語教師としての職業上の義務感から、<「は」と「が」の使い分け>をきちんと筋道立てて教えたいと思った時から、日本語文法に興味をもって、自分なりの結論に至ったものです。

 学生さんたちだけでなく、知的好奇心を忘れていない大人にとっても、鑑賞に耐えるスリリングな内容があるはずです。普段使っているコミュニケーショの道具、日本語の秘密がここに公然と暴露されています。わかって仕舞えば、何だ、そんなことだったのか、となるかもしれませんが。

 残念なことに、ある種のロマンチストが抱くような日本語特有の神秘のようなものはありません。誰にでもわかるように説明できます。より高級で複雑な、時に切実な表現だとしても、その土台はこの基礎的な形式と機能に過ぎず、高級さや切実さは言葉の側ではなく言葉が指し示す内容にあります。日本人の精神文化というものは、少なくとも基礎文法のなかに探しても、そんなものはありません。日本固有の文化の発露は、いいところも悪いところも日本語の運用にあるでしょう。

 かつて、時枝文法を提唱した時枝誠記(もとき)は、日本語または言語は、思想の表現であり、道具ではないと「日本語文法原理」で強く主張しました。基礎文法に限っては、情報伝達の道具としての機能をどう果たしているかの説明に止まります。

 トイレに入って用を足してから紙がないのに気づいた時、「おかあちゃ〜ん、紙、持ってきて〜」という表現に「思想」はありません。しかし、言葉がないのと比べると、遥かに便利な機能を果たします。

 社会的分業、意思や価値観の表明、過去の記録に将来の計画、複雑な対象に関する理解、科学、文学、法律、政治、哲学、倫理などなど、数え始めるときりがない多様な活動は、言語なしには不可能です。そのような高度な日本語の運用や内容は、基礎文法にとっての管轄外です。それらが可能となる日本語の土台となる基礎に限定しています。日本語と日本文化の関係に関する基礎文法の結論は、他の言語が実現している機能を、日本語固有の形式で実現する仕組みがある、ただそれだけのことです。

 がっかりした方がいるかもしれませんね。その代わり、日本語の文と現実の関わりをきっちり抑えた文法になります。文と事実、文と論理の関係の確認することが基礎文法の肝です。

 文の形式を見て、論理的明快さ、認識論的確実さについて、判断し、分析することができる用になります。例えば、曖昧であやふやな日本語で人をケムに巻く、宣伝、扇動、詐欺など、言語添加物やフェイクに対応する篩(ふるい)・フィルターになります。

 哲学と聞くと顔をしかめる人が多いことも知っています。でも、文法を入り口に、これ以上手間のかからない論理部門と認識論部門の哲学入門にもなる、と言ったらどうでしょうか。

 

 新しい基礎文法の利点は、「は」と「が」の使い分けが説明できることだと申しました。理論的には、これが突破口となって、学校文法と日本語学の文法理論の限界を超えることができたのです。基礎文法の立場からみて始めてわかることは、どちらの文法にも、基礎が、言い換えると文法の土台部分が確固とした基盤の上に建てられてはいなかったということなのです。

 近代の日本語学が始まって以来、文法研究が目指した理想のひとつは、日本語を学ぶ外国人に辞書と文法書を与えれば、自力で正確な日本語文が作れる文法でした。筆者である私は、日本語教師として、実際に、その理想にかなり近づいた文法理論ができたと考えています。

 学校文法の「主語」は、英文法の主語とは違います。このことを主な根拠として、助詞の「は」は「主題」を表すとする説に依拠し、「主語」を強く否定した三上章さんの研究が出たあと、日本語学の文法理論は、「主語」を認めず、「は」の「主題」を軸にするか、そうでなければ、「主語」を再定義したいけれどもうまくできないといった状態のまま、かなりの年月が過ぎました。

 このような混乱を整理して、いくつかの課題を解決するのが新しい基礎文法であるというのが筆者、わたしの主張です。

「は」と「が」の使い分けは、どのように説明できるのか。

日本語特有の「主語」をどう決めるか。

「は」の「主題」説はどこまで有効か。

日本語にも、英語の五文型に匹敵するものはあるか、あるとすればどんなものか。

 こうした課題に応える基礎文法は、理論的に新しい見方を導入した結果できたものですが、この文章では、基礎文法そのものの説明を主にして、特に論証はしません。

 理論的根拠、論証が気になる方は、わたしの書いた別の論文をご覧ください。このブログの過去の記事、こちらは、専門的な研究の成果と検討を踏まえた上で、基礎文法の体系を構成する各々の主張を論証しています。

 

 では、次回から、例文にそって、わかりやすく説明していきます。

 

1000アクセス達成しました!

みなさん、たった今、2019年9月27日22時55分、通算1000アクセス丁度になっているところを確認しました。

 

今月に入ってからなぜか加速度的に増えて300アクセス/月です。なぜにこうなったんか分かりませんが、科学者の予想を超える速さで溶けている北極の氷のようです。

 

とりあえず、閲覧くださった方々、ありがとうございます。来月から止まっていた更新再開できる条件が整うことと合わせて、励みになります。

 

日本語の「は」は、主題ではなくて、「題目」と言ったほうが正確であり、さらに、判断性のコピュラ機能がより基底レベルにあること。

   日本語の「は」は、(主題ではなく)「題目」を示す機能を認めるべきだが、それだけではないこと。

 同じく、日本語の「が」は、主格を示す機能だけではないこと。

 

 ここでは、基礎理論として前の記事に書いた理由にしたがって、「主題」と「題目」を区別して用いる。

 「主題」は、第一に、文の集まりで構成される談話や文章という大きい単位に現れる複数の「題目」のうちの中心になる「題目」とする。

 (なお、一般的語義としての「主題」には、中心的な「題目」、すなわち「主題」となる「題目」に関する話し手、または、書き手の主張を含み、その場合、「主題」は、「主題に関する命題」という内容の意味でもある。)

 この区別を採用すると、「文の主題」という用語法は、混乱しているように見える。この用語法の問題点は、「文の主題」を表すのが「は」であるという説とセットになっていて、そのような見方を取ると”「は」以外の助詞が「題目」や「主題」に関与する現象”の解明が等閑視されてしまうことである。

 「は」と「が」の使い分けの解明の妨げになっているとも言える。以下、その理由の一側面、情報構想と統語構造の観点から、説明を加えてみる。

 

 「題目」と「説明」とは、情報構造であり「伝達上の伝わりやすさ」に貢献し、「主格」と「述語」は統語構造であり、「文の意味構成」に貢献する。統語構造があってはじめて、そのうえで、情報構造が構成可能になる。

 「この本私が買いました」という文では、「この本」について、誰がどうしたかを説明していて、「この本」=題目(トピック)/「私が買いました」=説明というのが情報構造である。

 意味が同じ文「私この本を買いました」という文では、「私」=題目(トピック)/「本を買いました」=説明という異なる情報構造である。

 統語構造は、語と語が繋がって文意を構成する側面である。

「私は(/が)この本を買いました」では、

1)「私」=主格で、述語「買いました」と直結し、意味役割として動作主体であることを表している。

2)「本を」=対格で、同じく、述語「買いました」と直結し、意味役割として動作の目的であることを表している。

 統語構造段階で(または、統語構造の位相で)、命題的意味を構成する仕事は果たされている。「は」は、文の部分を取り立て、有標化するのだが、命題的意味を変化させるものではない。

 情報構造と統語構造とでは、統語構造をベースとして見るべきであるだろう。わたしの提起しようとしている基礎理論では、どちらがより基底的であるかがきわめて重要である。

 「私本を買いました」という形式的かつ意味的な基底があって始めて、情報構造レベルの「私本買いました」も、「本私が買いました」も取り立てが成立する。形式的かつ意味的な基底部分だけで、その文の内容は言い尽くされている。そもそも、本質的には、「は」による取り立ては、そうした文の一部文に付される、相手に分かりやすくするための装飾的変容である。ただし、この装飾的変容操作が、実質的な内容的側面に関する意識を圧迫して忘れさせるほど肥大している。

 忘れさせられているのは、ネイティブスピーカー全般におよび、それを理論的に解明すべき研究者の研究にまで及んでいると言っては言い過ぎだろうか。

 次のような例の検討をみていただきたい。

 

    統語レベルと情報レベルの二重位相という見方を「この本はおもしろい」のような定性関係を表す文にあてはめる。

 すると、「この本」と「おもしろい」とでは、文の指示対象である「本」が「おもしろい」性質を備えているという、いわゆる「属性」叙述と研究者がいうところの関係を「は」が示している。「は」は、「雨降っているよ」の主格同様に、前と後ろの直接連結していることを示す働きをしている。

 例えば、「この本は1解説は2おもしろい。しかし、作品自体は凡庸だ」という例文だと、「解説=おもしろい」であり、「この本=おもしろい」については明確に否定的である。「は1」を題目としても、「は2」の連結辞としての働き・機能を受け入れないわけにはいかない。

 このような例から、「は」につねに題目性があると言えないことが分かるだろう。

 では、談話・文章単位でみた中心題目である「主題」はどうだろうか。「主題」となる語句は、形態素だけからは決定不能であり、発話者の意図した内容次第で決まるものである。

 以下に例を示す。

 

(A)「この本はおもしろいよ。お勧めです」

   と続くなら、この文脈において、「この本」は「主題」になりうる。

しかし、

(B)「その本はおもしろいよ。でも、『兵士シュベイクの冒険』ほどじゃない。ぼくはシュベイクを勧めるよ。岩波文庫にしては、めっちゃ笑かっしょるで」

   と続くなら、最初の文は、話し手が「主題」(=『兵士シュベイクの冒険』を進めたい。)を導入するための文であって、けっして、「は」があるだけで「主題」であるとは言えない。

 文脈次第で、どんな形態素がつくかには関係なく、主題性が認められる。

 「は」の本質的機能を分析し、取り出すには、以上のような、統語構造と情報構造の二層構造を立てて、統語構造がより基底的であるとする見方が欠かせない。

 そして、すでにこのブログ内で前に書いているように、「は」と「が」は、対立しており、二層構造内部で交差しているのである。

 こうした統語構造をベースにして成立する情報構造という二層構造を顧みず、もし、「は」=題目、「が」=主格と、形態素と機能を位相の違う機能に一対一対応させて、排他的に限定すると、うまく「は」と「が」の使い分けが理解できない。

 その理由は、「は」も「が」も両方の位相にまたがって、交差して機能しているからである。

(1)文の題目ー説明という文の構造は、あくまで、主格ー(対格ー)述語という統語レベルの文意味を構成する構造があって初めて成立するからであり、

(2)「は」は、題目を示すだけにとどまらず、「トマトは野菜です」の「は」のような場合、判断文の主格と述語の関係に関与することが認められるし、

(3)「が」の場合も、主格にとどまらず、ある条件(=交差対立理論では、定性関係判断文の「は」→「が」有標化)では、例えば「私が上岡龍太郎です」のように、主格を取り立て、題目として焦点化する機能を担うことがある。

 統語構造と情報構造にまたがって機能する「は」「が」の存在は、日本語文が、異なる文構成機能のふたつの位相を、一元化していることを示している。

 こうしてみると、統語構造のうえに情報構造がのっかっていて、「は」と「が」が、二重のコピュラであり、かつ、条件次第では二重のトピックマーカーになる日本語の特性を踏まえて、日本語の基本的な文の仕組みを考え直さなければならない。(文の二元性の解明も重要だが、ここでは割愛する。)

 そうすると、情報構造の観点だけから、「は」の機能は「文の主題」を示すことだという見方の「主題」という機能概念も、文中の「は」「が」両方を、形態素としての個々の機能レベルから、もう一度見直さなければならないことになってくる。

 基礎理論では、「主題」としないで「題目」とする理由の一端もここにある。

 見直して出てくる解決案は、このブログの先行する記事に書いてある。

 

 しかしながら、現在の日本語学の主流の見方は、情報構造の「主題+は+説明」という見方を基底の位置に置き続けている。もちろん、そうした見方をとる論者も、この枠組みにとって例外的文法現象に例外的扱いをほどこす配慮はあるし、長年の局所的な研究成果の蓄積もある。そのことを認めたうえで、私見では、そのままの理論的枠組みでは日本語文の本質を取り逃がしてしまうので、根底から変えた方が良いと考えている。

    また、こうした複雑性妙で錯綜した「は」と「が」の使い分けを説明する枠組みは、

(1)日本語の基本的な仕組みと現実世界と文や文章との関係を明晰判明に記述でき、おまけに、

(2)自然言語一般と日常的意識に関する理論につなげられるようになる。

(3)哲学的には、日常で用いられる日本語の文から、法律や科学などの文に

至るまで、日本語の文の真理条件理論が確立できる。

   こういったことが、「は」と「が」の交差対立理論から、日本語基底文の二元論を原理とする日本語文法の基礎理論とその展開の射程範囲である。